これまでの日本から脱皮したい

格差社会を維持する規制社会としての日本




いつまでも元気な作家、五木寛之が(笑)言っている。
「われわれの社会は、自由であって人は固定化されないのが大原則のはずなのに、現実は格差社会。この問題は、格差があることではなく、格差が固定化されること。そこが問題なんだと思う」


よく言ってくれた。
ところで、この発言はいつのことだと思われるか。
実は2010年の1月という古さ。
週刊朝日」の多分新年号。「まだ続く『鬱の時代』———『諦める』ことからスタート」というタイトルで、姜尚中と対話している。
何か、今と何も変わっていないような気がする。


何でこんな記事を見つけたのかは省略しよう。もちろん、偶然である。
タイトルから見ても、新年から言うには暗い時代だったようだ。
仕事に夢中だったので気が付かなかったが、それでもプロダクト・デザインの仕事はほとんどなく、大手のスケルトン改修が多く、中国での設計業務に関わり始めていた頃だ。結局、頓挫したが、事務所運営に危機感を持ち始めていた時代だったのは確かだった。
ということで、また自分都合の年代記に行きそうなので、元に戻す。


今度、「日本型規制社会と知的生産―イタリアン・セオリーに学ぶ」というタイトルでセミナーを行うが(*)、そんなこともあって、ひょっと目に着いたという訳。
この年になって考えてみると、人生にはいろいろの転機があるが、その多くに規制と格差が関わっていたことが判る。その上での運と偶然である。
元々の資質や運、偶然は仕方がないが、その後に個人の能力を抑え込んでいるのが格差と規制である。特に日本は、一般的な生活者層(中流)が多いということを考えれば、出発点はかなり一列に並んでいるという気がする。それを考慮に入れての話だが、その後でこれらが強烈に働いているという実感である。

まずは学歴格差に始まるもの。大学に入った途端にランク付けされてしまう。当然、いい大学には学ぶに足る先生、ハイレベル社会からの関心も情報提供も多い。それを作っている親の家庭環境と資金力。これらを混ぜ合わせて、「差し伸べてくれる手と情報」が格段に違ってしまう。これが社会にでての加速器の差にもなる。それが人脈などの背景を得て固定化する。
次に規制。気が付くのが遅かったりして、何かを始めようとすると年齢制限に。本来「その方面」に才能があるのに資格がとれなかったりして不可に。手続きが複雑で難しいので対応できない…。そんな規制は山のようにあり、しかも専門性が高いので、その分野だけに深入りした者でなければ解決できなかったり。つまり専門分化であり、トータルな把握が出来ないので個人では生きない、とか。


この国はこういう見えない縛りで出来上がっている。
70年を越えて生きてくると、この縛りがよく見えてくる。個人の能力を最大限に活かして、何とか明るく楽しい日本社会を創りたいものだが。
何だかんだとやっているが、疲れからもあり現状の格差と規制に安住してしまっている人が多いので、自分でさえ無意味なことをやっているという気になることも多い。

「われわれの社会は、自由であって人は固定化されないのが大原則のはずなのに…」
改めて9年前の五木の言葉が目に留まった訳である。



* 2月26日(火)6:15〜20:00 日本建築家協会サロンにて
   パネラー:神田順、連健夫、山本想太郎、大倉冨美雄(進行)
   神田先生の主導する「建築基本法制定準備会」の背景に「イタリアン・セオリー」があることが判り、ここから問題を解き明かしたい。
会費:一般1000円、学生:500円、後での飲み物代を含む。
出来れば、後程チラシを添付したいと思う。




・354660 20:00

失う家具への想い 

失う家具への想い                         


「何ったって、脚が4本あるからなぁ」とミラノでの師、カルロ・バルトリは僕に向かって呟いた。
家具、特に椅子のデザインについては、バルトリ事務所でその面白さを教えて貰った。カルテル社のための全プラスティック成型による椅子は、彼の簡単なスケッチを元に僕がまとめたものだ。1971年(昭和46)だった。その後、帰国しても少なからずの家具をデザインし、生産に廻ったのはこの時からの経験が大きい。
あれから48年か。当時に比べて家具への想いは変わった。


椅子の面白さと難しさの核心は「足が4本ある」ということだ。3本足、5本脚もある。スツールのように1本脚のように見えるもの、樹脂や合板で構造面を造って「脚」にすること(そういえば、天童木工に提供したデザインの一部もそうだ)や、布で包んで脚にしてしまうのも、あるいは空気袋のようなものも、あることはある(一応、アートとしての奇想天外な素材を用いた一品制作的な仕事は考慮に入れない)。それでも持ち運べる機能椅子の基本は「当面」4本脚だと言っていいだろう。これが椅子の空間構成の基本問題を規定する。人体と接触する「座るという機能」があって、立体である。人力で持ち運びが出来なければならない。素材や構造、工法は後の問題である。それに面白いことに、日本の伝統の中に椅子の生活は基本的に無かったという問題もある。
モダンな家具が生活の主流に入ってきたのは、戦後の文化住宅の流れと期を一にしているだろう。
ここから、この手ごろな「機能のある立体(彫刻?)」の魅力に取りつかれて、多くのデザイナーや建築家も椅子をデザインしてきた。言い換えると、戦後の生活の洋風化とともに、デザイナーという職業も住空間の形成という仕事の場を得て、育ってきたと言えそうだ。
その頂点は1970〜90年代にあったのではないだろうか。
ソファなどまでに視点を広げれば、歴史に残りそうな少なからぬヒット商品はこの時代 (当然、イタリアの方が早く60〜70年代)にミラノ・サローネに出されたものである。
一方、これらの下地には、チャールス・イームズなど家具で著名になったデザイナーもいることから、家具がデザイナーの成功のある独立した分野だと見なされたこともあった。また工業製品材料の発展から、マルセル・ブロイヤー、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビジュエなどが金属家具をデザインして新風を播き起こしたことも、独自の創造性を表現価値としながらも機能性を持った芸術の価値分野として認知されるようになっていた。このようなことが自分でも、家具で成功すればデザイナーとしても成功することになる、という思い込みを植え付けられた時代でもあった。


しかし今や、機能を持った椅子のデザインは、その表現がが限定されている分、あまりにもいろいろの細かい造形が試みられ、歴史的価値などではなく、バリエーションの集合体のようになってきてしまったのではないか。
考えてみても、毎年卒業制作をするデザイン系大学生のテーマが家具である場合だって少なくないのでは、と十分予想出来る(もちろん、面白いという選択だけで、商品化レベルの判断ではないとして)。機能が明確ながら限定されているということは、椅子の造形的バリエーションはいくらでも出るが、オリジナリティの発揮は非常に難しいことが判る。
バルトリも、「プラスティックのように新素材が出てくる時がオリジナリティのチャンスだ。他の時代は難しい」と語っていた。
こういう時代になってくると椅子のデザインも「覇権の夢」が消えてくる。
僕が、誰にも負けない発想力と造形力で椅子のデザインをしてやる、という自負を持ってある時代を生きて来たとしても、気が付いてみるとその意欲がどんどん萎えていったのはこのような時代背景によるのかもしれない。
練りに練って質のいい椅子をデザインするという可能性もまだまだ十分あろうが、オリジナリティで世間を驚かすような仕事は「当面(ということは半世紀位のタームを考えている)」難しいのではないか。
家具デザインの全盛期は過ぎた。そう思ってしまうのだ。
残念だが、設計の役に立つと思って集めてきた多数の家具カタログを断捨離整理していて、そう思わざるを得なかった。






354220 23:50

くつろぎの午後に

あれ? ちょっと不思議。

普段、見掛けるより洒落た男女が多い。
ここは東京都庭園美術館。天気も良い連休の最終日。


考えるまでもなく、この展覧会が 「エキゾティック×モダン/アール・デコと異境への眼差し」 というので、ファッション系などの関係者が少なくないからだろうと予想はできる。それにしても、いくらかでもセンス・アップした日常風景が日本で見れるのは楽しい。パリコレのモデルになるだけで大変な競争があることは、コシノジュンコさんのテレビ番組で教えて貰ったし。
意外と魅力的な女性が多い、なんて言っていると、「展覧会を見に来たのだろう?」と言われそうだが、展示の中には参考になる作品があった。
菅原精造。 パリに行っていた漆工芸家。1905年にジュエリー工房ヴジェーヌ・ガイヤールの要望で渡仏する同じ漆工芸家村松華に随行した。1912年頃は、デザイナーで後に建築も手掛けたアイリーン・グレイに漆を教えながら、彼女のスタジオで働いていた、という。黒く等身大、木製漆塗りのモジリアーニ風の顔長の女性像はセンスがあって美しい。
ジャン・デュナン。 スイスの真鍮工芸家だが、1912頃年に菅原に出会い、その技術を学んだ、という。二つの漆塗りの壺が展示されていたが、そのグラフィック処理もセンスがあり、これはオレに近いな、と思わせた。(データは同館チラシから)


1912年と言えば、明治45年、大正元年である。菅原やジャンはその後どうなったのか。
12月6日の当ブログ 「大正の時代を想う」 にも書いたが、ヨーロッパへの憧れは凄いものだったのだろう。「浜辺の歌」 が出来たのはその翌年だ。藤田嗣治もパリに向かっている。
気分が ノスタルジックでなくなるが、アメリカでF.L.ライトが「ロビー邸」を設計したのが1907年、M.デュシャンが例の便器を展覧会に出して物騒をかもしたのが1917年だった(例の歴史比較趣味:笑)。
菅原はその後、どうしたのか。
話が飛ぶ。昔、このブロブのどこかに描いたような気もするが、ミラノに着いた年の夏、学生が帰郷して不在の学生寮(貸出していた)に在留していたが、そこの倉庫のような所に住んでいた日本の爺さんが居た。学生食堂はやっていたので、朝晩そこに居て(突然、大声でカンツォ―ネなどを歌いだし、残っていた学生達の失笑を買っていた)、空いた時間は寮出入り口の階段に腰かけて古雑誌を並べて売っていた。真夏なので、シャツにふんどし一ちょうの姿だったようにも記憶している。一度、声を掛けてみたら、歌手で、「これからオペラ座で歌うよ」と言った。
高度成長期前の1970年代頃までのヨーロッパには、夢が失せて日本に帰れなくなった芸術家があちこちにいたのではないか。
一緒には出来ないが、菅原はその後、どうしたのか。


ネットで調べてみたら、あった。上の話とは大違いの様だ。ただし、本当に近年の記録というのは問題。
元フジTVパリ支局長・熱田充克著「パリの漆職人 菅原精造」(白水社刊/2016)が彼のことを調べ、語っている。
また摂南大学の川上比奈子教授が彼について論文を書いていた。(「デザイン学研究」日本デザイン学会・Vol.63、No 2017 )

いずれにしてもフランスでは、アイリーン・グレイとともに知られているようだが、日本ではほとんど無名。これは我々の責任なのかもしれない。
取合えず簡単に書いておくと、山県県酒田市の出身らしく、家具などの技術も学んでいて、アイリーンと共同で家具開発や、建築までやったらしい。これでは自分と大して違わないではないか。
生涯帰国することはなく、パリ郊外に墓もあることが判った。
どうしてこう… もっと調べなければ。




・353220 19:30

新年に当たり

新年からだいぶ経ってしまったが、今年もよろしく願います。


実は、書くべきことは山のようにあるという気持ちだが、感じ方が複雑になっていて、簡単には書けなくなってきている。
そのわけはどうも、読んでもらうには「読んで良かった」という気持ちにになるような内容にしたい、そのためには下書きも必要である、その時間はなかなか取れないということがある。
一方、まとめて一書になるような関連内容でありたいとか、新しい驚きや発見で興味を引きたいとか、専門家集団向けでいいとか、いや、一般の人にも読んでもらいたいとか、いろいろの想いが錯綜して書けなくなってしまう問題もある。
もっとも、こんな言い訳は聞きたくないだろうし、当方も、何か言っておこうと書いたに過ぎない。


昨日、新年の集まりともいえるJIDA(日本インダストリアルデザイナー協会)のミュージアム企画に関わるセミナーに参加して発言もしたが、「デザイン・ミュージアム」企画だけでも複雑な問題がある。
軽井沢の別荘を建て替えて私設ミュージアムを造ろうという計画もあるが、都内でもない限り利用者は少なく、維持管理費の捻出だけでも四苦八苦するだろう。地方に作った有名人の博物館なども、ブームが過ぎたら誰も来なくなって廃館にしたという話も聞く。設計で見応えのある仕事を残そう、という以前の問題である。
こういう悩ましい私事も、言って見れば物事が決められず、書くことの難しさにまで響いてくる。
ともかくもこの1年で、いろいろのことに何らかの決断をしていかなければならないと思っている。





・352872 24:30

大きな変革の波よ、来い! 田根展追記

●「田根剛/未来の記憶」展見学を追記 18:40



出来ることをやる、だけでは足りない


一昨夜の建築家仲間での忘年会の帰りがけに、松田・平田設計事務所の取締役から、「大倉さん、次の本を、そろそろ出さないんですか?」と言われて思い出した。
実は、すでに何人かの方からこのことを言われていて、「ふーん、そろそろねぇ」という気にもなりつつある。内閣府の役人にも褒めてもらったし・・・。
でも文章作家でもないのに、読むに足る一書をまとめるのは並大抵ではない。しかも、言いたいことが言葉で言い切れるものではないし。家内は自分の父親が、書くたびにボケたと思っていて、「書くのはもう止めなさい。ほとんど(仲間うち以外)誰も読まないわよ」とさえ言う。
ただ、何かまとまりつつある。しかし、一般社会への説得力のある文章にするための、極め付きの具体的アイデアがまだ見つからない。


忘年会と言っても同業者ばかりだから、隣席、近席間の話は全て建築やデザイン関連。建築家協会の問題やら、「デザインは形でなく、考えをまとめること」などの発言から生ずる議論の連発で過ごす。
判っていることは、「デザインとは何のことか、日本社会では誤解のまま来ていること」、同じ意味で「日本社会がその本質的な意味のデザインを軽視している、というよりか、判っていない。その結果、経済評価しないということ」。つまり「デザインを生み出す職業人に、出来るだけカネを払わない国になっていること」「この結果、才能ある者は多く居るのに、このままでは感性価値を優遇した未来国家は望めないこと」などである。
アーティスト、ミュージシャンや芸人がそのままでは食えないこと、それは判っている。それを育てないという根本の問題であり、その上でデザインは社会的機能があるのだ。
そこで発する問題は「ではどうしたらいいのか」ということだ。忘年会で酒に任せてワイワイ言っているのは楽しいが、具体性が無い。


具体的な話、もしこの考えが認知され社会的に施行されているなら、自分の息子に「他の仕事(建築・デザイン系ではない、自分が思いつく仕事)を探せ」などというはずが無い。悲しいことに、結果的には親のさまよってきた同じような道を息子は歩き始めているが、こうすればいいという道を具体的に教えることが出来ない。というのも、真面目に深く努力すればするほど食えなくなるからだ。
大手のクライアントが、代が変わったり、社長が変わったりすると継続的な業務契約が切られてきた。そんな単純な問題ではないと思ってきたのが間違いだった。事業継続とは他のルールだったのだ。この国の「デザイン」へのトップの理解は、我々が思う「本質問題」ではなく、その場の人間関係(人脈、有力者の後押とかも含め)だったり、単に営業能力だったり、社会的名声だったり、その場のコスト戦略効果(資本力も含めて)だったりで終わっていた。こんな中での、モノや定量的なサービスを売るのではない、「かたちのない考えを表現する仕事、しかも美と体感に奉仕する」に向かっているのでは事業の継続や拡大はとても難しい現実がある。
更に近年、建築設計で言えば、何度も述べてきたように、あたかも建築家を犯罪者見立てで判定するというルールが具体化し、一方ネットの進化が、一般の発注者(設計依頼者)さえ、レベルの低いコンペ(コンクール)仕立ての判定者にまで仕立ててきた・・・。あ、ここで言ってもしょうがない愚痴になるので、もう止める。
ともかくも、自分の子に後を継がせたいと思うような新職業ルール観を何とか、この国に育てたい一心で、本も書こうとするし、セミナーもやろうとするし、人とも接触しようとしている。塾もやればよかったのかも。少なくとも現行の日本デザイン協会(NPO)はこの目的にも役立つはずである。すでにあちこちで書いたように、法改正や知財権へのアプローチもあるはずだ。
過日、ある集まりの後の懇親会で、これも隣の若手と雑談中、「天皇陛下、あるいは皇太子殿下でもが、一言『大事なのはデザイン』と言って下されば、日本社会は一気に変わる」と言ったところ、「あ、そういう考えもあるんだ!」と驚かれたことがあるが、この考えは敢えて口外しては来かったが、イギリスの皇室の例から20年位も前から思っていることだ。ここで言えるのは、日本がそういう体質を持っているということである。事実、江戸以降、黒船の来航と太平洋戦争での敗北という、いわば外圧と、結果的に皇室の関与が無ければ、この国は根本的には変えられなかったのだ。
さて、この後も無理なのか、それとも、このネット時代が変革をもたらすのか。息子にしてあげられることだけでも考え、実行したい。




●「田根剛(たねつよし)/未来の記憶」展見学を追記
ここに追記する筋のものではないのだろうが、息子の話と年頃では繋がる所があるし、外国に居ることで判ることもあるので、追記としてしまう。
アアルトの見学記について述べたことだが、結局、残された時間の少ない身にとっては、人の仕事はもうどうでもよいというところがある。
この展覧会も、ただでさえ東京オペラシティ・アートギャラリーでは行きにくいと思っていたが、若者が何をどのように展示しているのか、どうも気になっていた(今月24日まで)。


行って見て、結果として、何でもやってしまう、その若さに魅了された。
エストニア国立博物館」設計競技で、あの、捨てられた第二次大戦時の空港滑走路を活かして、発射路のような建物を提案した若者である。
外国人であり、得体の知れない若者の提案を採用するところが凄い。2016年に竣工して話題となった。
あのザハが獲った「新国立競技場コンペ」にも応募し、「新古墳」案で選定者とその周辺には話題になったようだ。このように、落ちても構わないから、国際競技には何でも応募する、頼まれれば展示会の内装から、小さなリノベーション、日本の酒醸造会社の酒ビン・デザインまで何でもやる、という魂胆らしい。
大磯と都内の個人住宅の施工例が出ていたが、なかなか実験的で面白い。本人は、「実験ではありません。周到なサーベイの結果です!」と言いそうだが、そのための調査資料や、現場で拾ったもの、各設計ステージにおける10個以上のミニ模型などが並んでいたり映像で見せている。スタッフには模型の役割について語っていて、相当の執念を持っていることが判った。
1979年、東京の生まれというから、39才だ。自分のその年の頃を思い出して他人事でない感興に襲われた。ああ、ヨーロッパでこそ自分を全開放出来たあの時代!
北海道東海大学建築科の出で、国内勤務経験は無いようだ。それが良かった。
他に資料が無いが、パリにアトリエを持っているようで、紹介映像で見ると、若者ばかり10人から20人ほどいるようだ。それで本当に良かった。当面、現地で受注する仕事以外、日本に事務所を移しては駄目だよ!





350235 13:00

大正の時代を想う

浜辺の歌



この間テレビを点けたら、オーケストラ最後のアンコール2度目に「浜辺の歌」を演奏していた。その演奏会の主演曲はブラームスの「第4番」。どこの楽団かと思ったら、NDRフィルハーモニー楽団(アラン・ギルバート指揮)とかで、指揮者とも聞いたことが無い名前だったが、楽団員はほとんどがヨーロッパ人であり、編曲もそうだった。演奏は巧かった。
歌手はいなかったがオケでも十分美しかったし、自然に歌詞が浮かんできた。


  あした浜辺をさまよえば
  昔のことぞ、忍ばるる
  風の音よ、雲のさまよ
  寄する波も、貝の色も


聴いていて感無量になった。やはり自然を謳っている。「荒城の月」もそうだ。耳のどこかから忍び込まれた日本人としての感情が湧いてきた。それを外国人が演奏している。
調べたら、この曲は大正2年(1913)の頃のものだそうだ(大正7年:1918という説も)。
その30年前に、鹿鳴館(1883:明治16年)が建物も、中での行事も参加者の身なりも、全く欧米の真似であったことは無意識でも判っているつもりだったが、実際、このことを彼らはあざ笑っていたという記述がたくさんあると知った。やっぱりそうだろう。あれから130年ほどかけて、やっと欧米人が日本の歌をオーケストラで演奏してくれる時代になったのだ。
この曲はいつ頃から衆生の耳に入ったのだろう? 思い出せば、我々の世代では「荒城の月」だけでなく、「箱根八里」「かなりや」なども、気が付いたら誰でも知っていたし、10才未満でも、これが日本の歌なんだと承知していたようだ。これらの曲が世間に知られたのは、「浜辺の歌」より10年以上古かった。明治34年頃(1901)で、国を挙げて大国化を求めていた時代である。この後、日露戦争(1904)に突入した。
いや、また時代情報にこだわったが、維新が一段落して、民心が新しい欧化時代への予感に心が震え出した、そこに続く大正時代への想いが募る。私事だがこの大正2年に父が生まれている。我々にとって、そういう時代距離感なのだ。あの藤田嗣治はこの年、1年前に結婚した妻を捨て、パリに旅立っている。


歌と時代の空気は個人の脳裏に密接に繋がっている。それも主に、子供時代から青春時代までだろう。加齢化するほど、うざい雑音の集合体のようにしか聞こえなくなる場合が多いのでは。ある時代までは何らかの流行歌が生活の廻りで流れていてそれらの曲を聴くたびに、当時の生活や感情の実感が想い出されてくる。それは当然、その世代、世代でのずれがあるのは仕方のないことだ。
若い人達には聴いたこともないかもしれないが、「異国の丘」「湯の町エレジー」「憧れのハワイ航路」「青い山脈」「長崎の鐘」(1948〜49:昭和23〜24年)などが、夜道や身の廻りで歌われていて、かすかに記憶がある。ということは自分でも、意味も解らずに歌っていたということだろう。「リンゴの歌」とか「東京ブギウギ」とかは歌う気はなかった気がする。
この頃の記憶があるということが、戦後のどさくさのイメージがかすかに残っている世代ということか。後になって、本気で自分たちの歌だと思ったのが「テネシーワルツ」(1952:昭和27年)だったりする。このころから、憧れはアメリカになってしまった。






349265 18:45 350000 12/16 21:05

「釘を打て! 」では済まない

  • また、追記あり  ●以降 12/01 00:30   348960



「へえ!、出してくれたかい」というような感想を持った自分のコメントが、小さいけれど「建築ジャーナル」12月号に掲載された。
これも建築家世界の話だが、ご参考までに元原稿を添付します。

テーマ「は、批評の在り処」で、パネラー:倉方俊輔(建築史家、最近、森美術館での「建築の日本展」を全体監修、話題を呼ぶ。大阪市大准教授)、豊田啓介(建築家、東京、台北で多分野横断型で活動、台湾国立交通大学助理教授)、藤原徹平(隈研吾事務所を経て独立、受賞作品多数、横浜国大大学院准教授)、司会:五十嵐太郎東北大学教授)。以上のように、皆、若い。
公開討論で、その場では発言できなかったが、後から感想と意見を送ったもの。10月20日 建築ジャーナル編集部にて開催。




「くぎを打つ場所を探すべきだ」

建築は確かに個別であり、この国の現実を考えると、「身近に出来ることをやる」、「他人の仕事を褒めてやる」というような会議の流れになったのはよく納得できた。
事実「平成よ、終れ!」という倉方さんや、藤原さんも言う、「昭和からの50年が引きずられ、何も変わっていない」という主張の中からは、当面、この社会の硬直性を打破する本質的な手段はない、と言っているようにも聞こえた。事実、建築評論もすっかり社会に順応している。
それだからこそ、「身の回りで出来ること」だけやっていても、この社会構造の変革のための「釘刺し」になることは生まれないのではないか、という気持ちがよぎった。
より構造的かつ本質的にこの国の「駄目なところ」を摘出して、そこに釘を打っていかないことには、平成が終わっても何も変わらない、となるだろう、と思わずにはいられない。
それは建築基準法建築士法などの抜本的な見直しを含め、政治家やメディア人種の再育成、建築教育の改革など、日本の社会を構成している根本にまで至るが、現状では、「建築士」はもちろん、「建築家」でさえ、出来るだけ法規に順応することを当然と考えるように体内化されてしまっている。
AI化も見込んで世界的に、産業構造が感性価値評価へシフトし始めているというこの時に、建築家にこそデータと経済性万能へのブレーキ役が出来るのに、その前に潰されてしまっている。こういうことに視点と行動力を持つ建築評論家や建築家集団も生まれていないのは、この国の悲劇としか言いようがない。気の付いた有志は改めて協力し、くぎを打つ場所を探し、実際に打っていくべき時だ。



● 後から読むと、自分のことだが、建築誌の討論会のためとは言え、やっぱり狭量、浅薄な意見だなと思う。これは、言ってみれば青踏派の文学のように、実社会の実需を把握した言い分にまでなっていない。
実際の日本社会を動かしているのは経済(カネとそれを動かす仕組み)であり、失われつつあるとは言え、いまだ主導権を握っている政官財のトップ人材、それを支える大手企業と追随するメディアである。こういうところには本質的には何も響いていない。感性価値社会の登場だと言っていながら、である。相手となる者は、既存体質に忖度して逆らうことを恐れ、変革への意欲が薄い。 今後は、この辺へのさらなる論議と戦略こそ必要だろうと自省する。






19:00 348835