「インスタ映え」の背景

([ダイアリー」の方にも記述を。「ブログ」とコピーを共有することも考える)

 

 

インスタ映え」という用語と行為が流行を越えたと思う。

この意味の持つ問題は相当深いだろう。

写り込みばかりに視点が行く意識問題もあるが、これが情報の渦に巻き込まれ、人に見せようとして意識した画像ばかりを見せつけられる日々が、人間にどんな影響を与えるのか。

個人の行為はともかく、映像を収入の糧にしようとする者や組織は、過去データとしては出来上がったもの(有名になった画像やシーン)ばかりを使いう傾向も強まろう。

視覚情報の拡大と拡散は、あらゆる事象を考慮も無く受任し、視覚が生み出すものに、判断の主体性や自分で思索する状況を消し去る可能性も考えられる。

視覚空間の拡散は、現代アートの無責任事情を表していると思える。

再録

この前の最後の「ダイアリー」で、二つ窓口があるので「ブログ」の方にします、と記している。

念のため、最近の「ブログ」タイトルは以下のようです。

 

近況の軽い説明           6/10

記録                6/16

現代にダ・ヴィンチを連れてくる   6/22

最近の出来事を報告(七夕会へ)   7/9

百年目の「意匠」選定        7/9

 

この「ダイアリー」は12年前の2007年1月3日 から始まっている。

かなり長く想い出深い自己史になる。「ブログ」でなく「ダイアリー」でいいのかどうかはまだわからない。

ダイアリーでなくブログ

ご案内

何度か案内していますが、「はてなダイアリー」の終息でブログへの移転を求められ、手続きをしたところ、「ダイアリー」と「ブログ」に二連建て構成になっています。主催者に問い合わせたところが返事がありません。

ホームページや私の個人名などからアクセスするとこの「ダイアリー」が出てきますが、「ブログ」が出ません。両方に書く馬鹿も居ないでしょうから「ブログ」にしています。

「ダイアリー」を見て更新していないと思われた方は、「ブログ」を探してください。

引き続きプロに相談しますが、当面、よろしく願います。

デザインの終わりの次

デザインの終わりが進んでいる。

デザインの再出発はあるのか。

これまでどれだけデザインの問題に悩まされてきたことか。 カタカナ言葉が示す問題の大きさは簡単には説明できない。

問題の多くは、芸術の解体と科学的合理主義の行き詰まり、それに経済万能主義の接点にあるだろう

それにしても芸術の解体は大きな悩みである。

マルセル・デュシャンが体験し、体現した世界観は今でも続いている。多くの芸術家が、ありとあらゆることをやっているが、どれも納得できるような仕事ではない。

つまり、芸術は終わっている。

 

一方、科学もAI時代の取り込みで、すでに人智を越え始めているが、本当にはどこまで人間に置き換われるかはまったくの未知数だ。

数日前、孫が生まれて赤ちゃんの表情や皮膚感覚、体温や体重に触れてきたが、こんなことがAIに出来るわけがない、と信じたい。このことに感動したが、それはやはり人間の神秘である。

カネを儲ける、有名になる意外に、何かやる目的を持ちたい人にとって、そうなると、今、やるべきことは何なのか。

デュシャンが、かなり長い人生をチェスに打ち込んで過ごしたと知っているが、その事の深い意味が伝わってくる。

それにしても、とまた言うが、そういう社会認識になれない日本社会の現状には、やはり気が滅入る。

どれだけ、稼げたか、どれだけ知名人であるかによって人生を判断されるなんてまっぴらだが、今後とも、それに眼を向けて生きている人ばかりで創るような社会であるなら、何とかしなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

混乱のまま

はてなダイアリー」が終業するというので、慌てて「はてなブログ」に変えて貰った。

移転した「はてなブログ」をクリックすると、そこに「はてなブログ」と並んで「はてなダイアリー」がまた、ある。これまでの10年余りのブログと思っていた「ダイアリー」記録はこちらに在って、今書いているこのページである。

ということは、これまでのフォロワーの方は、引き続きこちらを見ているのだろうか。あるいは、これまでのアクセス方法では、もうここに届かないので、見て頂けなくなっているのだろうか。

また、「はてなブログ」に移ったことは知られていないのだろうか。

そもそも両方、存在するのは、どういう意味なのだろうか。

 

時間がなくて、会社にしつこく質問すればいいのだろうが、出来ていない。数日の内に契約サポーターが来てくれるが、高齢者がこういうことをやるのに、あまり親切ではないという気がしてならない。もう「ブログ」などは止めろと言うことなのか。

 

読んでもらうというより、元々自分の人生記録だと思っているし、このデータが今後の著書(自分の考え)などのベースになっていると思うので、真剣に存続して欲しいのだ。

 

これを読んで頂いている方には、数日のうちの判断も加えて、「はてなブログ」だけに書いていくことになるかもしれないことをお伝えしておきたい。両方に書くわけにもいかないし、コピーを転載するのも馬鹿らしいので。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ブログ」と「ダイアリー」の混乱

こちらが「ダイアリー」?

「ブログ」にも書いたが、〔ブログ」に移転したのにまだ「ダイアリー」がある?

当面、よく判らない。両方に書くような不合理さは避けたい。

生きる目的などは無い

フォーマットが変わったことで、たじろいでいる。

この様式に書けば、ちゃんとアップデートされるのかという不安が付いてまわる。

ページ・リビューも無くなったそうだ。

このまま、このブログに書いていていいのか、という不安もある。

いずれにしても当面、対応策は無く、時間が過ぎていく。

 

この不安は、ブログだけのものではないのだろう。3月1日の朝日新聞に、佐伯啓思氏が「平成の終わりに思う――にぎやかさの裏 漂う不安」(「異論のススメ」欄)を書いていたが、まさしくこの現代状況を代弁したものだろう。

現代の(特に日本でのことだが)あまりの自由が逆に、共通の規律や規範を無くし、そのまま放置された(バベルの塔のようなものだ)という。その通りだ。

昨日、急に思った。「この世は生の意味などない。ただ生と死と、生きる間の愛があるだけだ」と。