激震期の狭間で

まだやるべきことがある、と、あがく日々を振り返る


書くことがない、と言えばウソになるが、あまりにもいろいろのことが言葉にならない。
本当に表現したいのは言葉ではないから、ますます言葉にしづらい。
言葉でしか表現できないこと、つまり哲学的なことを言うにしても、このところの社会事情は恐ろしくその深層で振動させるものであり、また政治・経済・社会・文化を貫くもので、とても数口の文章で言い表せるものではない。そして、それだけの広範な知識を自分の内に占有できてもいない。


過日(11月26日)、日本デザイン協会の討論会を開催。今、その録音起しをしているが、どうも、しゃべくりまわることがどの程度の「歴史的な深み」を持っているのかと思ってしまう。
現状報告、過去の報告つまり経験の披露、問題提起などになっているが、「デザイン」への想いが各人別々なので、まったく焦点が合わない。それはいいとして、ここで言っていることが「歴史的なアンガージュマン(引っ掛け、つまり社会と自分の持つ拘束を越えて、行動への責任を持つこと)」になるのかどうかが、まったく見えない。
となると、言葉の遊び会をしているか、自己宣伝の場にしているだけではないか、という気にもなってくる。
それで判るのは、皆、自分の存在を無視されたくないのと、そのためにと言ってもいいが、何等かの自己表現に走る、ということだ。
もしかするともっと単純で、皆には悪いが、このような場に出て、言いたいことを言って後は知らない、ということですっきりするだけの場になっているんじゃないのか。 「デザイン論議」はそれを許す。
デザイナーの世界をずっと見てきて感じるのは、議論内容や提案のフォローが悪いのと、それをどうするのかが見えていないで、その場の思いだけで行動(発言)することだ。だから同じことを何度でも繰り返す。それも内々だけで。



話は飛躍するが、大学に入って、気が抜けて人生の意味が解らなくなり、彷徨っていた時に出会ったのが三木清の「人生論ノート」だった。 このことは今度の著書でも触れた。
今では、ほとんどの学生は読まないだろうが、ここにあった「人生は虚栄である」という言葉に取りつかれ、救われた思い出がある。
人の生は虚栄以外のものではないと今も思っているが、この自己内面性だけでは片付かない、生の苦しみが教える社会性もその後の経験に付加されてきた。そこで学んだのが、社会のシステムを変えようとする時に問題となる既得権益・利益者層のものの考え方がもたらす問題である。その層とは、誰でも思いつく政治家や経営者ばかりではない。メディア人種でも、学者でも、あるいは組織の中のほんの小さい格差にある人間関係にまで至る。 感覚的にわかりやすく言えば、エリートが持つ問題だ。
ただそれが急に偏芯し、格差が大きくなっているということだ。
これはもう「デザイン」でも何でもない。


自分が本当に出来る自己完結な表現で 「売れること=必要最低限の対価が得られること」 だけをやればいい、とするなら、何があるのだろうと改めて考え込んでしまう昨日、今日である。
顧客の要望ばかりが大きくなり、かつそれが絶対的に正当化され、感性を自由にさせてもらえないような建築やデザイン相手ではだめだ。
そのやれることがあって初めて、平穏な人生になりそうだ。 繰り返すが、それは言葉での表現でもないはずだ、残念ながら。








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