KN@デザインはトータルなものだ

【情報・論】




デザインはトータルなものだ



最近は国家のグランド・デザインの必要、などと言われる。
この場合のデザインは、英語の原義の通り、「計画」である。
この言葉が意味するように、デザインという用語は、今やあまねく用いられている。
その意味では、本来のデザインという外来用語が至極正当に使われ出したといえる。


現実には言葉は、身近になればなるほど、その時代の空気のようなものを反映し、ある種の偏向を含むものだ。
テレビCMなどで、「デザインだけじゃなくて、性能も?」などと言っているとき、デザインは「見たところの格好」という意味に理解されてるのが明らかだ。
しかしそれももっともだとして見ようとすれば、デザインが表現されたものまでを含むということである以上、間違いではない。
誠にデザインの厄介なところは、計画という目に見えないものを意味しながら、見えるものにするところまでを言う点にある。格好だけについて言ったとしてもまったく否定はできないのだ。
しかも、一般的にデザインという場合、それがどんなモノ(商品)や事象についてかを言っていないので、更に面倒なことになる。


産業の発展は職業を分化し、あらゆる手間の組み合わせで商品を生みだし、流通に乗せてきた。
こういう産業の在り方では、デザインもまた、それぞれの分化した産業や職業に分かれて付着するようにして育つのも仕方のない事だった。
だから、それぞれの産業、それぞれの職業分野で勝手にデザインの解釈をしてきたのだ。


現業としての産業や職業から経済を考える政治にあってみれば、現在の所、デザインがそれぞれの産業、職業に付着している部品のようにしか見えないのも当然である。これまで面識を得た何人かの政治家、産業人に、自著書を送るなどしてこの問題への開眼を願ったが、ほとんどなしのつぶてであるのも無理ないところだ。
単に想像力の欠乏というだけでなく、そこには文化に関わる教育の不在もあった。
こうして、現実のデザインの持つ意味と可能性についての無理解が、教育の欠乏にまで環元されてしまう所にまで行きつく。


ただし冒頭に述べたように、デザインの多面性への理解がどんどん出てきているのは確かである。
現在はちょうど分水嶺の頂きにいるようでもある。
今後ますます、デザインはその原義に沿った拡大と理念化を進めてゆくことになろう。そして具体化されていない「計画」がデザインのうちの大きな比重を占めることへの理解も拡大してくるはずだ。
デザインがトータルなものだとしての了解はどんどん深まるだろう。(1―2)