向井周太郎さんのつづき

【論】(前日の超硬派論議の続き)



向井周太郎さんのつづき


なぜ佐野さんは、向井周太郎さんにこだわったのか。
ここで佐野さんの許可を得て、このトーク集会を持ちたいと思った理由辺りについて聞いてみる。当日の主旨説明でそれが判る。
引用させてもらうのはほぼ同意見であるからだ。


「当日、私から主旨説明をしましたが、全文私の意見です。ご参考までに記します。

・ 今は、デザイン現象を分析して上手に回答につなげて行くのが風潮ですが、このトークサロンでは、敢えてこの骨太の重いテーマをお願いしました。
・ 戦後日本のデザインは物資欠乏から始まり、社会と共に進展してきましたが、成熟と同時に生じた滞留感に今浸っているように見えます。 そこを自律的に打ち破る方法がなかなか見出せないでいる。
・ そのためには先ずこの状況を客観化する「視座」が必要なのではないか。 今までは前だけ見える視座でやって来られましたが、今は全方位を見るための視座が必要です。
・ 日本は「デザインの源流」といわれる国からいくつもの流れが流れ込む滝壺のようにして発展してきましたが、その流れの中の「形として見える」ところにのみ関心を集中し、その背景や仕組みや精神に余り関心を示さなかったという反省があります。
・ 今、日本が確かなデザインの源流の一つになるためには、その背景としての哲学を含めた思想の基盤・そして仕組みが必要です。
・ そのように考えた時、浮かんでくるのが今日お話頂く向井周太郎さんです。向井さんは哲学の眼差しでデザインを見ておいでの数少ない中のお一人です。
・ 今日はドイツ工作連盟バウハウスについて直接お話しを聞く貴重な機会です」



そこで、先回り僕に送ってくれた説明案内を覗いてみたい。
佐野さんは、テーマを大きく3つに仕切っている。


この企画は今のところ100%私が担当しているのですが、今回はとびきり硬派です。
で、向井さんの世界はあまりにも広範なので私の方でダイジェスト的に流れを作らせて頂きました。以下がその概要です。(大倉注・向井:とあるのは、本人の著書内の発言を佐野氏が引用。sanoとあるのは佐野氏のコメント)


ドイツ工作連盟バウハウス−−伝わっていないその背景を確認

向井: 近代デザインとは、いいかえればデザインのモデルネ(大倉注:基本パターンか)であり、(単なる近代化ではなく)あるべき「近代性」を形成するための社会改革的なプロジェクトであったといえる。
Sano:ドイツ工作連盟バウハウスとは時代背景も状況も異なりますが、デザインの社会性という点では共通点があり、そこから現在の閉塞感を打破する何かが見出せるのではないかと期待。


●日本のデザイン状況 −−デザインの真の意味は定着したのか

向井: 日本の現代デザインの現象は、風俗にまで及んで大衆化しているが、作る側にも、使う側としての生活者にも「デザイン」に対する真の意味は定着しなかったのかもしれない。
本来、手段であるべき「経済」が、いつしか目的化され、「デザイン」もまた経済の目標へ向けた手段と化していないか。
そうした状況の中で、日本の文化の中にあった精神的理想と生活方法の合致した質の意識や美意識もどこかへ喪失してしまっているのではないか。
 日本では企業体の中で余りにも効率よく細分化されて、高度大衆消費社会には役立ったのかも知れませんが、デザインを社会的なものとして捉える哲学的視点を欠落させたまま、生活の真の豊かさの創造という課題からは、余りにも遠く隔たって発展をとげてしまっているのです。
Sano:経済の手段としてのみ発達したデザインが、経済の停滞と同時に自らが提案する普遍性のある理論も力も持ちえなかったのではないか。


●生の全体性としての生活世界の世界形成とデザイン

向井:デザインは基本的に人間の生命や生存の基盤と安全、日々の生活やくらし方、生き方や生きる方法、人々の関係やコミュニケーションや社会形成におよぶ、誕生から死までの生のプロセス全体と、生命の源泉としての自然環境や、生命あるものとの共生関係などを包含する「あるべき生活世界の形成」に深くかかわる。
Sano:向井氏が提案した「自己再生的文明」から、そこに必要な「自省的文明」に話が行くが、「自省」が決定的に欠如していた日本にとっても、タイムリーな提言ではないか。


ちょっと長文になりましたが、大倉さんには是非、質疑にご参加頂きたく記しました。

どうぞよろしくお願い致します。

佐野邦雄