自省の句:「捨てられない」おのが出自

【日記】


「捨てられない」おのが出自


職業の選択とはどういうことか




誰にもあるのだろうが、青春の一時に自分の人生や世界のすべてが感知されたと思う時がある。それは何の根拠もなく、ただの感傷にすぎなかったのかもしれない。それでもそれが尾を引き、大学の決定や学生時代の行動に現れてくる。
そういう年頃にほとんど直感的に組み立てた人生計画が、実人生の大半を規定してしまうということもあるのではないだろうか。そうなると自分がしがみついたものを捨てるのがとても難しくなる。しかも価値観の根本に関わる激変の時代にあっては、大変な問題をもたらす事になる。


最近、はやりの「捨てる覚悟」を求めることを「断捨離」というらしい。これは、まずは身の回りのモノの整理について語っているのだろう。それにこの言葉の発案者の話もあろうが、ここでは自分の問題意識から「精神的に捨てられない」問題を考えたい。

またまた私事になるが、私事を自慢や恥さらしとして語りたくはない。ただ、職業柄といおうか、他人の経験を使って語るような能力もないから、自分のことを客観化して行くしかないことはお詫びしたい。
僕の場合、「美術であって美術でない、工学であって工学でない」(と思われた)デザインという分野に目覚めた時、しめた、こういう事が可能なのだという予感があった。まだこの分野はほとんど未確定要素が大きかった。この時代には建築もプロダクトも同じテーブルで話し合う下地はあった(現場では、著名な建築家がプロダクト・デザイナーを見下げるような発言と行動に出ていた、という証言はあるが)。
その後、経営という視点が入ってきて職能が分化し始め、なにやら自分の能力から離れた視点が加わり始めてから、行動に大きなブレが出始めた。自分の能力ではデザインのガイドラインを示せなかったことが大きかったのかもしれない。ただ時代は大企業体制社会を築きつつあり、対象はあまりに大きく、大手企業やそれを押す主官庁に注進する術は無かった。企業に属するデザイナーは専門化し、経営トップになることは考えられず、そのままいれば下手をすると企業内下請けに留まることは目に見えていた。
もとからの個人資質をベースに人生を組み立てていたわけだから、「その部分」はどうしても捨てられなかった。もしこれが、社会基盤を自己論理の根底に持っていれば、社会の変動にスライドして自分の考えを移動することも出来たかも知れない。これが主体論と客体論の分かれ目になるのだろう。
こうしてデザイン理解は拡散を続ける一方、職能団体を引っ張ることになり、プロフェッショナルの権益の確立に向かって狂奔することとなった。こともあろうにその前に、日本を逃れてミラノで10年も仕事する事になったために、かの国でのデザインへの認識がおのれのそれと近かった事もあって、その観点からも自分が思い描いたデザイン業務を捨てられなくなった。そこにはいくつかの理由があったにせよ、ミラノでは建築家とプロダクトデザイナーの明確な区別は無かった。
こうして、結果として自己のデザイン概念は拡大し続け、デザインの統合と経済的独立を呼びかけ、その結果、おのれの仕事部分は、商品企画、商品設計、インテリア、建築、評論と何をやっているのか判らなくなった。
「捨てられない」という事は「美術であって美術でない、工学であって工学でない」という不安定なところに敢て自己を置いたことを捨てられない、という事もあるが、概念の拡大に沿って分野を拡大する責任を捨てられず、それを全うするために追いかけた、という意味でもある。つまり、自分の内に主体論と客体論がないまぜに同居してしまったのだ。

こうしてか、身近の者にも、関係諸職業の仲間に在っても、僕が何をやっているのかわからない存在になってしまったような気もしている。これを面白半分に、自分の関わったと思われる「担当職業の名前」に置き換えてみると以下のようになろうか。それぞれに関わった仕事がある。多くのデザイナー、建築家、作家は、どこか一つか二つの部所を受け持っているのだろう。
商品企画広報の仕事=アート・ディレクター、グラフィック・デザイナー
商品設計=プロダクト・デザイナー、インダストリアルデザイナー
インテリア設計=インテリア・デザイナー
建築設計=建築家
言葉による評論=デザイン評論家
美術制作=美術作家、アーティスト
事務所運営=経営者
学生に教える=大学教授
団体運営=社団法人理事長、NPO法人理事長


そして今、これでよかったのかと思う毎日だ。すべてを捨てず、まっとうできるはずとの思い込みがここまで自分を引っ張ってきたが、これでよかったのか。自分の能力からの距離を考えて、捨てるべきものは捨てるべきだったのではないか、と。
拡散すれば、そこには政治も経済も入ってくる。芸術家がベースであるなら、そんなことまで出来る訳が無い。天才でもない限り、自分のテリトリーを小さくてもいいからしっかり押さえ、そこで深堀りする事の方がはるかに実体的である。そんな声も聞こえてくる。
今になって、ここまで自分を広げなくてもよかったのかもしれない、という気持ちは残る。でも、やれることはやって、その経験から語ろうという立場は一貫して変えられなかった。これを経験主義者の馬鹿と言ってしまえば、確かにそうでもある。しかし、最初に思い込んだ「デザインの概念」からすれば、これらをすべて集約した上で語るのがむしろ当然のように思えたのも事実である。ただ「作家」としての認知努力は、少々、いい加減にしてしまったかも知れない。
作家系デザイナーや建築家には、無意識のうちに旧態たる「見える仕事、いい仕事を見せろ。それから言え」というような思い込みが多い。また現状把握でやっとのジャーナリズムやデザイン評論家にも、同じように自分に「見える仕事、いい仕事」からしか評論できない者がほとんどだ。
そういう「市場」で生き残っていくために、残された仕事は更なる「作家的所業」かも知れない。もともとセンスに自信と思いがあったから、この仕事を始めたのである。いつの間にか、「才能がないからしゃべっている手続き人間」にされてしまったならまったくの不本意である。