バルテュス:いらつく創造心理

【論】  追加あり●〜●5月5日、6日


バルテュス:特に好きな画家というわけではないが、その創造心理に妙に「いらつく」                  

この連休に遠出の物見遊山ともいかず、上野の山に展覧会を見に行く。


パリに生まれ、そこに住んだ、と紹介されるから、フランス人かと思いきや、パンタザール・クロソフスキーという名が示すように、ポーランド貴族の血を引く画家で美術史家の父と、画家の母を両親に持ちドイツ国籍だった。このため第一次世界大戦が勃発すると、一家はフランスからベルリンへ退去せざるを得なかった。父母は画家だったからパリで生きたかったのだろう。1914年、バルテュスが6才の時だった。
これだけ聞いただけで、バルテュスの人生に何が起ったのか、判ったような気がしてくる。歴史の波に翻弄され、ポーランドの悲劇を背負っていたと言えるのではないか。
1917年に両親が別居、その後、母バラディーヌは子供二人をつれてジュネーブに移住。ライナー・マリア・リルケと恋愛関係になり、リルケが父親代わりをしたというのだから、ここでも子供心に唯ならぬ心理的圧力が掛かったことが十分感じられる。しかもリルケと来れば、社会的に評価を得た芸術家の環境がすでに準備されていたということも判る。


実は、バルテュスについて美術評論を試みようとする気は全くなかった。ただ、何となく気になる存在として、一度、作品を見ておきたかった。建築やデザインに表面上は全く関係ないし、そこから創造力を貰えるという気も全くなかった。今、東京都美術館で開催中である。


で、見た後の印象だが、何とも落ち着かず、いらつく気持ちが押さえられない。
なぜだろうと考えてみたが、どうもその生い立ちにまつわる「戦争の世紀が与えた不安」が大きいのではないかと思えてきたのだ。少女趣味も、猫への偏愛も、そのような歴史の大波の中で見た時に、許せるような、判るような氣になってくる。


そういう眼でみると、残された不思議は、そこはかとないエロスや、何かを説明していそうな人物の仕草や組み合わせである。デッサンができないようにも見えるが、意図的なデフォルメなのだろう。そこに計画的とも見える幼稚性が読み取れ、思春期の少女の未完成なイメージと重なる。


少女らしい女の子が窓に向って外を見ている図が少なからずあるが、これは「『少女』の殻から外界へ抜け出ようとする…内なる力」だとする(尾崎眞人京都市美術館学芸課長)考えを聞くと、ふーん、と思う。それを越えられなければ成熟した女にならず、かといって越えればいいという訳でもない…つまり、そこに少女の未成熟な神秘さと美しさがある、という見立てである。それが世阿弥の「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」という言葉になってよぎる、と尾崎氏は言う。「花は秘すべからず」と思い、少女への想いが無い(?)僕に取って、「想定内」ではあるが、確かにその辺にバルテュスの魅力があるのだろう。


バルテュスシュールレアリズムやキュービズムと一線を劃していた事について、アントナン・アルトーはこんなことを言っている。
バルテュスは世界をまずその外観を出発点として捉える。…「既知のもの」から出発するのである。(略)だがその「それと分かるもの」が、今度は誰も到達し得ず、誰もそれと分からない意味をもつに至るのだ」(河本真理日本女子大教授の文章に引用あり)
ここからも分かるように、バルテュスは「…抽象画の登場によって、具象絵画を描く事自体が困難になりつつあった時代、それどこころか『絵画の終焉』が幾度も叫ばれた時代に、敢えて具象画に(芸術家と職人の区別が確立されるようになるルネサンス以前の)職人の誠実さと真摯さで取り組み続け、それを可能にした画家であった」。(河本氏)


1908年生まれ、2001年に93才で、妻の節子と娘に手を握られながら安らかに亡くなった。ちょうど戦火と映像情報の20世紀を生き抜いたわけだ。でも、はたしてバルテュスの示した創造の道が21世紀の今にどういう形で、受け継がれるべきなのかは僕にはさっぱり分からない。少女も猫も使い尽くされた、今度は熟女と犬だ、とでも言うわけではあるまい。いや、ひょっとすると、これでもいいのかな。何しろ何千年という単位で見れば、「こうして後継ぎが続いていたのです」と言われたりして・・・。後が何を示すかは、本人の能力で。
●ここからが書いてはいけないことなのかな。「いらつく」原因がわかったような気がするのだ。つまり世俗を絶って(もっとも官職としてローマにいた時代もあるが)、少女と猫を、おびえた繊細な心で描いているだけで「世界(表現と社会的認知)が完結する」なんて。すぐ自分が出てしまうが、こっちはこんなに難しい仕事をしているというのに、何をやっているんだという気持なのかもしれない。比較しても始まらない話だということは十分承知で。ここにミクロコスモスへの開眼もある。
それは建築もデザインも、現代社会において、お節介にも感性の理知的部分を拾い上げて何かしてあげるような意識でやっているが、誰にだって、イメージに現れた淡くも狂おしい思春期のような感性がないのではない。芸術の理性的部分が、社会と関わることによってとてつもなく難しいものになってしまっているなら、自己完結な世界に反転したってとがめられるようなことではない・・・ということか。●


1962年、54才の時にアンドレ・マルローの指示で初来日し、その時に見初めた大学生・出田節子と結婚し、作品に日本を取り込み親日家でもあった。そこからの論説もあるが、ここではあまり関心が持てない。