グレート・ビューティー(追憶のローマ)

【日記】  ――永遠と喪失の狭間で――



理屈っぽい話は置いておいて…映画の話をしよう。




映像の勝利! 言葉だけではとても伝えられない世界がここにある。

ロベルト・ロッセリーニルキーノ・ヴィスコンティフェデリコ・フェリーニ… 想い出すだけでも映像に振り回されたあのイタリア映画の世界が、新しい形でここに戻ってきた。あまたある映画賞をすでに10以上獲得!
パオロ・ソレンティーノの「グレート・ビューティー」である(原題:La Grande Bellezza:英訳と合っている。東急文化村「ル・シネマ」)。

もう一度、見たかった(終わっている)。でもあのしつこさには閉口する。でもそれでこそ、あの退廃と魅惑のローマが描けるのだろう。映像は濃厚で一瞬も画面から目が離せない。それで2時間21分!

ここでとやかく言う必要はない。何が違うかって、その違いを判るにはこの映画を見てもらうしかない。だから、言葉だけではとても伝えられない、と言ったわけだ。



そういうことなので、ここでは周辺事情を話そう。
オムニバス風に、どんどん小さな話が移っていくが、主役の爺さん(と言ったってまだ55才)トニ・セルヴィッロ(映画の中ではジェップ・ガンバルデッラ)は、このシーンの変化ごとにジャケットも変えている。それが赤、白、黄色、濃紺、空色というように、胸ポケットのハンカチやYシャツと共に、シーンに合わせるかのように変えている。全部、モノカラーだ。柄物は一つもない。実に合っていてかっこいい。これだけでも、見ている方のムードは高揚していく。
何しろ「映画のセリフを借りれば、『服屋とピザ屋の国』に成り下がったイタリアの首都、ローマ」(解説の藤原章生氏)だけあって、服を落としてはいけないからだ。
ソレンティーノは意図的にローマの名所をシーンに持ちこみ、あたかも観光映画を作ったかのようにも見えるほど、きれいに景観を取り込んだ。
誰でも知っている、市街の中心にある古代遺跡の円形競技場「コロッセオ」を見晴らす場所にあるパーティ会場、なんて言ったって、現場を知っている者には、あそこにそんな場所あるはずないじゃんということになる。撮影された場所を特定しながら想い出しても、周辺は公園か遺跡の城壁だったはず。最初はCGかと思ったが、観光客には縁のない公園内にあるサンティ・ジョヴァン二・エ・パオロ教会の修道院を借りて、ここのテラスから撮影したらしい。そしてここが、この爺さんの自宅という設定でもある。この一帯は南に向かって丘になっているはずで、アッピア街道に沿っている。
夏の夕暮れに浮かび上がるコロッセオを背景にしてのカクテル・パーティ。過去も未来も取り込んで永遠がそばにあるという印象。たまらない。


実は、もう一度見たいということは、それぞれのシーンの意味が日常茶飯事的であり小さく、これを積み上げるために、内容が少々こんがらがってよく呑み込めなかったからでもある。述べたとおり、シーンはどんどん変わる。その各シーンのストーリーはよくわかるのだが、すぐには配役がどこでどうだったか、そのシーンの挿入が前後関係からどういう意味を持つのかなど、にわかには繋がらない場合があった。後でこれを聞いた家内がまた、「認知症じゃないの?」と(苦笑)。
ひとつには、この爺さんが筆を折った元作家で現在はジャーナリストのため、やたら早口で能弁(その内容が濃い)のため、ある部分ではイタリア語の聞き取りと日本語テロップ読み確認とに謀殺されたようなこともある。画面の文字を読むということは、映像を理解することとはまた違っていて作業が大変だ。映像観察も大変で、このアングル(撮影角度や距離、広角度やズーム度)の意味は、とか、ライティングの不自然さはこの場合許されるのだろう、とか、なぜこのシーンを加えたのかとか考えてしまうのだ。先に述べた服装のこともこれにつながる。こんな見方をしていたら、いくら時間があっても足りないだろう。しかし、問題作となると、全神経を集中して緊張する。これは習性であって、この緊張の高まりがいい映画だとの自己認定(=自己満足)につながるのだ。(もちろん、イタリア語の聞き取りと日本語の調整は自己研修であって、せこい努力である。 余談だが、意訳しすぎているのか、「こうは言っていないじゃないか」と思えるテロップが出て、自己内調整に追われる時もある)。
アングルと言ったが、いい映画で非常に重要なことにカメラ・ワークがある(もちろん、コンテンツと脚本が基本だが)。このことは直接には、かって「太陽がいっぱい」を見た時のカメラマン、アンリ・ドゥカエに教わったような気がする。今回のカメラマンはルカ・ビガッツイ。やはり、ソレンティーノは全幅の信頼を置いていて、近作のほとんどは二人のコラボレーションのようだ。


何が言いたいのかはよくわかった。カタログ解説者(大場正明氏)の言うように、「永遠と喪失の狭間で」生き悩んでいる男を問い詰めることであり――つまりそれは監督の想いであり、我々、作家的な生を送っている者にも問いかけられる問題の回答を求めての徘徊なのである。だからこそ、他人ごととは思えず、のめり込むわけだ。たとえば、何千万かかければ(製作費の知識はないので)、自分の創る、自分のストーリーの映像ができるのではないかと思えてしまう。それなら下手なホーム・ページなど問題にしない自分の言いたい世界ができるじゃないか、と。
(続きはまた後で)