ホイッスラーのやさしさ(その1)

【論】ホイッスラー論(その1)  追記2015/02/26●印



先行して辿った「現代アートの踏みとどまるべき位置」
何となく気になる、知らなかった画家の足跡と周辺を辿る。


アメリカ出身の画家で初めにパリ、それからロンドンに移住したジェームス・マクニール・ホイッスラーは、1877年にロンドンで開催されたグローヴナー・ギャラリーのオープニング展覧会に、まさに「闇に打ち上げられたよく見えない花火の夜景」とでも言うにぴったりの絵を描いて出した。それは画面がほとんど暗闇で、今、僕の視線から言ってみれば、感覚的な美意識を主題にした現代絵画の嚆矢であった。
これに、ジョン・ラスキンから噛みつかれたのだ。42才の時だった。
ラスキンが自分が刊行していた雑誌で言ったことを、今回、横浜美術館での展覧会カタログから転記すると、
「私はこれまでロンドンっ子のあつかましさを嫌というほど見聞きしてきたが、公衆の面前で絵具壺の中身をぶちまけるだけで、200ギニーを要求するほどふざけたやつがいるとは考えてもみなかった」


絵には売値をつけていたのだが、ホイッスラーはこれに激怒しラスキンを名誉棄損で訴えた。結果は勝ったが、掛かった高額裁判費用に比べて賠償金はほんのわずかだったため破産に追い込まれてしまい、エッチングの仕事が舞い込んだのを機会にヴェニスへ飛んで行った。逃げ出したと言っていいのかも。
それにしてもラスキンに留まらず、彼の人生の過程で、あちこちでいさかいを起こしていて、人間関係はうまくなかったようだが、このことで、この時代の主流から外されて来たようなら残念だ(本当にホイッスラーが嫌な奴だったのか、どうかは知らない)。
ここで、ラスキンが絵画芸術に意味のある説明内容を求めていたことが分かるが、それより我々は、ホイッスラーが「感覚的な美」を身をもって擁護していたということに留意する必要がある。


こういう考え方や感じ方が出てきたのは、40才過ぎてからではなく、10年も前の、自ら志願した南米チリへの従軍派遣(1866:31才)の際に描いた「バルパライソ」や「ノクターン:ソレント」の、黄昏に沈む波止場や、霧がかかったような茫洋とした海域に浮かぶ帆船風景にすでに十分見て取れる。すなわち、感覚的に受けた自然の美しさが持つ空気感や、そこからの色や形こそ芸術であろうという、ホイッスラーらしいほのかな感受性が、ラスキンにどやされたりしたこの頃に急速に自己確信に至ったのだろう。


この時代、1860年代は、当時の最先進国イギリスで見る限り、まさしく近代絵画への転換点であり、またその後の現代絵画の苦悩の出発点でもあったと言えよう。
●フランスを見れば、1860年にセザンヌシスレーが21才で、若者としてどんどん変わる社会に新鮮なまなざしを向け始めていたが、同じ年代なのに(ホイッスラー26才)「ジャポニズム」に感化された風がない。
コローは64才で、独自の自然景観そのものへの純粋な視線が確立し、「モルトフォンテーヌの想い出」などを描きはじめる頃だった。

日本は、と言えば、1860年は万延元年で、まだ明治維新の8年前。尊王攘夷安政の大獄に発展し、この年に桜田門外の変が起き、日本中が騒然としていた時代だった。岡倉天心はまだ生まれていない(1863)。●維新の17年前の1851年には、すでにロンドンに水晶宮が出来ていたのだから、いかに近代文化と技術が遅れをとったかが推測される。逆に、ホイッスラーも、セザンヌシスレーも近代技術そのものへは、それほど動かされなかったことが読み取れる。付言すればこの時代は、その後のセザンヌに見るように絵画を自我の表出の方向に持っていこうとする時代の始まりだった(セザンヌについては「わからないセザンヌ」本ブログ2012/04/28を参照されたし)。
すでに見てきたウイリアム・モリスは25才になっていて、この年、妻のジェインとレッド・ハウスに入居し、ロセッティ、バーン=ジョーンズらと家具やインテリアの仕事をはじめていた。ラスキンは「ラファエル前派」(ロセッティやモリス)の擁護者であったから、その点からホイッスラーを見ると判る気がする。ロセッティ、バーン=ジョーンズ、ミレイらはまだまだ動機を説明しうる具象画を描いていたからだ。
ほとんど同世代のかれらの交友関係の中にホイッスラーが入っていないようだが、ラスキンが邪魔をしたのかもしれないと思うのは考え過ぎか。


ここでしばし、作品から人間関係を想定するという想いから生まれた余談をするが、影響があったかもしれないと思われたのが、ホイッスラーが友人から仕事を奪うかたちになって内装を施した「ピーコック・ルーム」(1877完成:現在は米ワシントン市のフリーア美術館に移築)の中央に掲げられた1枚の絵(1865)である。この絵が、モリスの唯一の油絵らしい「麗しのイズー」(1858)、後からのロセッティの「プロセルビナ」(1874)にイメージ上、とても近似しているのだ。イズーも、プロセルビナもモデルはモリスの妻のジェインである。展覧会での紹介がインテリアの映像中心であるため、もう一つ明視出来ないが、特にイズーの方は、立ち姿、首の曲げ方や頭の角度、更には同じモデルではないかと思うほど顔が似ているように見えた。
余談ついでに、この絵には他にも数奇なことがある。描かれたモデルが着ているのはなんと,鳥居清永の版画などに影響されたらしい着物であり、背景は屏風である。「ジャポニズム」の絵画への挿入で知られるゴッホなどより徹底した和風好みの絵になっている。画題も「陶器の国の姫君」(La Princesse du pays de la porcelaine)で、一般に「姫君」で通っていたようだ。もう一つは、この絵が同じ所蔵家に長くとどまることが無く、珍しく転売を重ねていた話題作だったらしいことだ。(パメラ・ロバートソン「格別の敬意:ホイッスラーとスコットランド横浜美術館カタログより:なおこの絵が、インテリアから独立して本展覧会に来ているわけではない)


ホイッスラーが20才でパリに渡ってちゃんとした画家になろうとした気持ちが明確に出ているのが、後からどんどん出てくるエッチングで、これを見れば彼がすでに画才を確立していて、問題なく絵心があったことが読み取れる。
彼の特段に目立ったところのない表現活動のうちに、素直な視覚表現上の美へのスタンダード足りうる姿勢が盛り込まれていることを考えると、すでに絵画の解体した現代から見て、ホイッスラーの所業はもっと重要な評価を得ていいと思われる。(「ホイッスラー論;その2」へ続く)
(ホイッスラー展は3月1日まで横浜美術館にて開催中)