辿り着いた島国人の限界と可能性(3)

「隠された領域を拓く」 (クリエイティブ[アーツ]コア)を論じるセミナー開幕

前の表記テーマ(1)(2)に続き、その(3)を。
●印4行他、補正追記あり。07/17、18


さて、(1)で話された建築家各人の「隠された領域」への想い、(2)で私が語った、イタリア経験が教えた「日本人とは?」との想いに秘められた「隠された領域」への誘導から、著者としての立場も踏まえて、このセミナーの考えをまとめるように司会の湯本先生から指示された。




帰国後ずっと意識の底流にあったのが、日本人はやはり島国人である、という実感を教えたイタリア生活だった。
何を今さらと言われるに違いないが、観光でもなく、数年の派遣社員的滞在でもなく、特殊な環境にある学生生活でもない10年の生活が教えたものは簡単には語り切れない。そこにこそ、私に教えた日本人の「隠された領域」認識の出発点があったのだ。
「パトカーの接触事故」は「体制への民間批判力の実在」を示し、「ミラノからトリノへの車中」は「個人を認めあう合議形成の場の実在」を示していた、と取れたのだ((2)参照)。その実感は今に至るも、現場で確認するのでなければ得られない、言葉にならない衝撃となって残っている。
(1)で、「表層」と「底層」という言い方をしたが、ここで語ろうとすることがまさしくその「底層」に当たると感じられる。




日本人は国際化の中で中和されてきたとはいえ、本質的にはある意味で、やはりとても特殊である。中和された分、見えなくなっているという意味では、まさしく「隠された領域」が存在すると言えよう。
それはセミナー紹介の各人コメント欄でも「日本人の限界」として述べたが、
1・脳で考える分、体感を信用しない。組織化するほど、理性的なもの、全体合意への無防備な信頼を置く。●体が学ぶ職能観を担保しない。(感性メンタルの劣化)
2・自分の内面より、外部(公知された認識、既定の法制度、データ、メディア情報など)に信を置く。その結果、自分の行動を内面からの発露としては決められない。(技術・理性メンタルの主流化)
互いに重なり合う、このことが日本社会の「隠された領域」ではないか、と思うのだ。どちらも「体制への批判力の実在」や「個人を認めあう合議形成の場の実在」の欠損に大きく関わる。


そこで現在の日本人が辿り着いた意識の流れを解き明かそうとしたところから、後段の話となった。
結論から先にいうと、現在の日本人のメンタルを形成してるのは、明治維新に意識された「和魂洋才」という折衷案で生き延びてきた辺りに原点があるのではないか、ということだ。欧風洋化への急速な要求は、欧米文化が何をもたらすのかを考える以前に、必要善として鵜呑みにされた。洋装化や鹿鳴館に見る真似事は自前文化の保持よりも、外形から思考を変える要素として受け入れられたのだ。特に教養を持たない田舎侍からの成り上がり政治家たちは理屈だけから考え、変革を急ぐなら伝統文化などは邪魔物という意識だったに違いない。ここには尤もらしく「和魂」とは言うものの、「和魂としての文化」は大きく軽視された経過が読み解ける。この時から「政治は文化を捨てた」のだ。
そこでこれを次のように図式的に二分割してみたい。


  1・「感性メンタル(当時の和魂)の劣化」=感性とそこからの文化の劣化とも言えよう。
  2・「技術・理性メンタル(当時の洋才)の主流化」=主体の外在性とも言える。


これらのせめぎあいとして二色分けして、その流れを3枚のパワーポイントで示したのが、以下の図表である。
後から補足説明するかもしれないが、まずは図表をご覧頂こう。判っている人(感じている人)には、判っていることだろうが…。



上の図が、あえて二色分けにしてみた上述の1と2である。
維新期には国民の多くは、心の在り様は変わらないと思っていた。つまり二色分けしても、「洋才」については輸入文化・技術への「受け入れ空間」を用意しただけということであり、ここには自分や個性の出番のない無意識空間が出来たということである。




輸入された法制度や議会運営のルールは、一度それが動き始めると、どんどん社会の規制化に向かって働いていく。
それは個人の発想や文化の保存・形成を相手とはしない。



こうして現在の日本社会の枠組みが形成されてきた。
現在では、このように追い詰められた感性価値問題にほとんどの政治家は気付いていない。官僚やメディア人種は気が付いてはいるが、官僚は規制強化が「国民のため」であるとし、結果的に保身の役も果たし、メディアも最重要問題とは考えず、如何に日本がこの方面での社会的枠組み(経済システムを含む)に欠けているかを意識していない。わずかにトップ経営者の一部に、来るべきAI時代への実践的な問題として日々、悩んでいる人が出てきているようだ。ただし、ここで提示したような問題意識としてではない様だが。
湯本先生は補足で、私が言わなかったこととして(時間がなく言い忘れたのだが)、経済問題としての感性価値の重要性を追加された。
このことの現実の被害者は、この仕組みに乗るだけでは済まない文化の形成者たちである。中でも技術力、安全配慮、規制甘受などだけで済む「技術者としての建築士」では納得しない建築家などは最大の被害者の一人であろう。
●このセミナーが篤志的な建築家の集まりによって開かれていることから、もう一歩踏み込んでおこう。
建築士法」などを読み込むと建築士は基本的に犯罪者になるという視点に立っている。建築家はそれに異議を唱えることもなく、職能を知識力化し周辺業界を育てることになる「定期講習」などに黙々と向かっている。これをおかしいと思わない処が日本人なのだ。●(補正追記) いや、おかしいとは思っているが変えられない、あるいは変える方法が見つからない、どうしていいかわからない、当面こういう方面に職能団体は機能していない、このままで行くしかない、と思っているのが日本人だ、というのが正しいかも知れない。何を隠そう、この自分もその一人でしかない。

この辺りからの事情は、参加くださった神田順先生(建築基本法制定準備会会長)が主導する世界になっていく。


なお、自著「クリエイティブ[アーツ]コア」の展開は、こういう背景(隠された領域)を承知して、アート、デザイン、建築などは感性職能として横断領域化し再編成しよう(社会的な存在として、政治的にも経済的にも存在意味を高める運動をしよう)という主張になっている。




ここまで来ると、最初の皆さんのトーク(1)とも繋がってくるのではないか。
村上さんは「AI時代でも生き延びる、このような領域の魅力を若い人に伝えたい」と言い、田口さんは「このような領域を忘れないように生かしていきたい」とし、宮田さんは、このような領域で頑張ってきた人たちの例を示し、今井さんはより具体的に結果として既成権力と戦った人物例を紹介した。連さんは、既存の体制の中でも活路を見出す途の具体例を示した。
このように皆さんが現実の中であえぎ、もがきながらも、希望を失わないで頑張っているのが救いである。


会場の皆さんの発言を得て、更にアンケートをお願いする段階で、湯本先生が最後のスライドを紹介した。
それは暗雲垂れ込める天空の一角から日の光が射し掛かり、洋上の一部を明るくしている風景だった。








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