最近、思うこと(その1)

11/08 ●〜●追記   11/17:「どっちつかず」に作家(芸術家)を加え、●2〜●2 を追記した。

  • 不思議だな、と思う。

経済と学者のことだ。
どういうことかと言うと、家内の「あなたはどっちつかずよ (だから誰にも、あなたのことはわからない)」 という言い分に象徴されている。
つまり経済人なら、もっと時間管理をしっかりし、金銭感覚が発達し、人脈を大切し、組織化出来るはず。それを全く学ばないし活かさない。 かと言って、学者に向いているようなのにそっちも活かさない、なら作家かというとそうでもない、というわけ。何が不思議なのかは段々解ってくると思う。


実際、僕自身が学者であることには不満を持っている。
大学で教えてきたから判ることだが、大学教員は一般に経済に疎い(経済学部系や例外はいざ知らず)。あるいはカネのことを考えるのが苦手だ。だから既得の社会評価が高く、定収入の得られる教員に留まろうろうと「努力する」(今の時代、本当の能力の差は小さい。特に文系では)。●これをひがんだ見方だと取る人もいるかも知れない。本当に研究が好きで、それが評価され、大学に留まることを乞われている人材もいることだろう。だが今の時代、これだけ経済中心の社会になっている時に、収入の途を考えない人がいたら会いたいくらいだ。●
留まれると、ますます経済事情に疎くなるという悪循環に飲み込まれる。で、博士号取得、学者に向えば向かうほど、既存の学会系の体系、ルール、人脈頼りになり、ある種のプロにはなるが、この時代の社会構造の根本的な激変(特に経済構造)に関知しなくなる。あるいは傍観者になりやすい(客員教授のような立場は別とする)。
これが嫌だった、というよりこれに異を申しているうちに学会の外にいることになった。というか、留まることに猛烈に「努力した」教員たちに負けたのかも知れない。


一方、自分の業務はデザイン・建築系だから経済に結びついている。ということで食えては来たが、「学者向き」だったことから判るように事業化はうまくなく、こちらの沼の深さの尋常でなさに飲み込まれてきた。(アトリエ設計事務所のようなレベルでなく、本格的な形態としての)組織的事業化というのは実に大変なことで、まずカネへの異常な執着が必要で、運やタイミングも大きく、経験値や保有人材、組織の継続への人的配慮など個人的な力量も大いに関係する。当然、カネと維持に疎い自分のような立場だと、いい加減になるのは目に見えている。しかも経済のグローバル資本主義化は、技術的変革だけでなく資本力の格差もどんどん広げている。自分のような原初的能力しかなければ、ネット分野でも生きれず、例えば街のラーメン屋のような手仕事で始めたら一生、ラーメン屋で終わるだろう。それならいっそ、陶芸家のような方がまだいい。作品は残るかも知れないし、となる。
では、その作家はどうかと言えば、いわゆる旧来の芸術家にも納得していない。このことは「クリアイティ部〔アーツ〕コア」(近自著)で説明しようとしたことで、芸術の解体に同意していることによる。現代では、下手な自己主張だけの「作品」なら創る意味がない、と言っている。
ということでは、家内の観察通りだということになる。


だが、待てよ。「この時代の社会構造の根本的な激変」と言ったように、学者であろうと経済人であろうと芸術家であろうと、これからは今までの仕事のやり方では通用しなくなるのは明らかなのではないか。AIを持ち出すまでもなく、既存の社会体系では済まなくなるのは多くの知識人が言っている。
とするなら「どっちつかず」と諫めるのは、既存の体系に則った価値判断なのではないか。家内がそう卑下するのは、現在も既存の価値体系の中でしか一般の社会評価が育っていないからではないか。つまり、現在の(特に日本社会では)既得・既成権力構造が、目に見えないようでありながらしっかりと出来上がっており、「どっちつかず」の人材を評価・導入する社会的な仕組みが無いのだ。


と言うと、「なに言ってるのよ。そんな自分都合の夢みたいなこと言っていて、誰が信用すると思ってるの?!」と返ってきそうだ。


不思議なのは、家内のこのような言い分を完全に無視するような気にもなれないことだ。そこに日本の社会が持つ、内に居てはわからないぬるま湯の心理がある。
逆の言い方をすると、日本の社会は相当「硬い」。いや、人間の本質に迫れば迫るほど「硬くなる」、とでも言おうか。 産業社会でも、高度成長期に浮かれていた日本軍団の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が見事に引っ繰り返ったのに、人間の価値評価軸はその基本レベルで、明治以来、全然変わっていない。本当に、時代を超えるいいことを言ったり、やったりしているのに誰も評価しない、というのは実感にもなってくる。人種が言語を通してもほぼ一元化しているので、全体の暗黙合意が出来てしまうと新しいことの実行や大きな変革が難しくなる。内心では感じている。でもその殻の外にあるのが何なのかの実感はない、ということではないか。


●2 このことは日本人だけの問題ではない、という人が居てもおかしくない。ある意味で、日本人は今や人類の思想史の過程でも最前線を歩いているのも確かだろう。そう考えれば、日本人の現在と未来を考える事は、世界の個人のことを考えていることにもなる。どの国民にも、それなりの「硬さ」はあるのだろうから。
そう考えると、「どっちつかず」の正当性、あるいは現代性を大きく叫ぶ必要があるのにしない、という意見にもぶつかりそう。でもこの多値化社会、過剰情報化社会にあっては、個人が何を言ってもすぐ渦の中に掻き消える。むしろ多値化社会は個人の発信が社会力化することを抑える方に働いている。


不思議なのは、家内のような主張(獲物を捕りに行くように洞穴を追い出すメスの心理)に対して、洞穴を出ても、もう放射能の影響で獲物が見つからない、と穴に留まろうとするオスのような心理関係が起こっているということ。穴を出ても戦う相手が見つからないという歴史的な時代状況をどう判断するか。●2







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