モノ・イメージ・論理

新年から難しい言葉が並ぶ。    ●追記あり。  01/05 24:00


これからの世で、人の間で語られていく「素材」が何か、と問われた時に、自分ならこの3つを挙げる。
モノ・イメージ・論理。
「素材」と言ったのは、経済価値にしろ、文化的価値にしろ、それを使って何かを「生み出さざるを得ない業(ごう)」を背負わされた人間にとって関わる対象だから。


モノ: これに執着してきたのがこれまでだし、一番親しみやすく取りつきやすい。でもこのところ、「モノ溢れ」の現実を嫌というほど思い知らされ、量としてのモノ、価値としてのモノの限界を深く感じるようになった。
「工業デザイナー」としてやってきた半生は、まさに高度成長期とその余韻にすがってきた日本社会と一致するが、少品種大量生産から多品種少量生産に移ったとしても、モノの時代は終わった、というのが実感である。モノで何かを生み出すには、余程の価値設定が必要だろう。もちろん、これは自分のことだ。ウイリアム・モリスの擁護ではないが、あらゆる手仕事に専心する人たちを軽視するものではない。建築もある意味ではモノで造る空間であり、モノとしての限界は近似している。


イメージ: あらゆる変化や対象に対応できるが、まずここでは視覚系を意味する。それでも、イメージの扱う「表現素材」のことは語られていない。アルタミラの壁画にしろ、ギリシャ・ローマの神殿にしろ、表現されれば「イメージ」が発生するから、紙の上にスケッチしても、設計した建築が完成してもイメージは発生するのだが、その過程における、やりたいようには行かない主体(自分のこと)を離れた雑音の多さは、イメージを減衰させていくだろう。ここに近代が創り上げた作家としての「建築家」が行き詰っている問題がある。かと言って、機能の無い表現は、狂信や自己犠牲への覚悟がなければ何も意味しない可能性も高い。モノ溢れと同じように、現代は「イメージ溢れ」であり、映像の時代の最渦中にあるとすれば、余程の論理的帰結か狂信が無ければ、ほとんどのイメージ表現はやっても意味のないところに来た。


論理: これを言い換えれば、言葉によって思考を表現することだ。イメージの表現は言葉ではないが、言葉での表現は、あるイメージを生む。詩歌まで含むあらゆる文学がこれを実行してきたのだろう。不幸なことに自分には文才がないと思い、これで表現しようとは思って来なかった。しかし、社会の複雑さがここまで来ると、創作者には言葉尻だけの「いいね」だけでは済まされない。表現された現実の姿を個人の好みで評価するだけなら問題ないが、仮設的に未来を読み込んでイメージを語るには、やはり論理的に組み立てられた言葉による説得しかないか、と思う。言葉を心底から信頼していない者が、言葉で思考し表現することが最適の視覚イメージに繋がることはあるのだろうか。


●で、僕は何が言いたいのだろうか。
これが、おのが創造行為をストップさせている悩み事であり、何も本気で手が付かない理由である。
昨今の殆どの創造行為は、無為からの脱出を願いつつ、それから生活費を捻出すべくあがいているだけだ、と読める。もちろん、100年、1000年のスパンを視野に入れての話である(大苦笑)。
時代が遡れれば、ある時代に於いてこれを逆説的に読めた男がいたのは確かだ。
マルセル・デュシャンだ。




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