この30年間、何をしてきたのか

(この記事は、引用文が長いので日めくり風に要点を転記して行く。数日、追記が続くがご承諾を。
また、最後に「あとがき」として、状況報告を加えた)



小田原の実家を売却した、という個人事情の話をしたが、残された資料の中に、驚くような記録が出てきた。

日本工業新聞」(現在はフジサンケイ・グループの一社で、新聞は発行していないようだ)の、昭和63年(1988)11月17日の「経済人」欄に、頼まれて随想を書いていて、そのコピーが出てきた。掲載された時点以降、読み返すのは30年ぶりだ。


読んでみたら、何だ、ある意味で今と全く変わらないじゃないか!
この30年間、何をしてきたのか?
しかもこの時、昭和の終わりに近づいていて、平成の終わりに近づいている今と社会状況まで酷似している。
文章は硬くしつこいが、あえてその要旨を転記したいと思う。
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「いま産業文化の転換期」  ―商品デザインに事寄せて―


「和魂洋才」を清算
……一見、価値観の多様化の一途をたどっているようようだが、現実は種々の錯誤や引きずっているものによって、それほど変化しているわけではないようだ。デザインとてその例外ではない。
最近は「デザイン」を行うにしても説明するにしても、社会の理論的枠組み(パラダイム)のあり方から見て、日本人の「文化感覚」そのものも視野に取り込んで考察しないことには自分でも納得がいかなくなっているのが実感である。
今、天皇陛下のご病気を気づかう心理が問題になるのは、「昭和」を単に年号だけでなく、ある文化の形の一区切りとして感じられることもあるからではないか。
このことについては……明治からこのかた西洋を追いかけ遂にそれを凌駕する所まで来た現在、この手の「西洋化路線指向」のままでよいのか、と気づき始めた心理とオーバーラップしていると言えよう。言い換えれば、やみくもに展開してきた自分が何者かよくわからなくなったという時に至り、わが国近代の出発点となった「和魂洋才」という異種配合のの総決算を迫られているということか。
というのも個人も国も、主体的で実体的な存在原理が定まらぬ所をうけて、「擬似洋子魂洋才」とでもいえるほどヨーロッパ型合理精神の上澄みだけを体制化してきたからで、その潮流の根底には、客観的な技術論理から析出されるものへの直線的な信頼と、その論理を転用した経済効率主義からの将来展望しか見えないからだ。6/6 00:50 334030



6月8日の追記
「感性の時代」の商品
「デザイン」の問題は、技術と文化の接点にある。技術による商品化ベースでの革新というような具体的な話はさておき、これまでの技術観でデザインを全部説明することはできない。一方、これまでの「文化」というのが今まで述べた観点からも、何らかの輸入概念の訳語のにおいがする点で、長らく使用をためらうような恥ずかしさがあったのも事実ある。このような「文化」でデザインを説明するのもまた、気が引けるのである。
一方、「デザイン」は戦略としてみれば、マネジメントにも関わっていることがまたややこしい。以上のような文化と技術の批判点をとらえて新商品を企画していくことが、経営者にとって最も重要でかつ難しい問題となってきたが、それが「デザイン」決定の難しさとなって現れている。
と、ここまでは、デザインのいわば「客体論」である。デザインの「主体論」は、いわばこの類の論理的な分析が出来たとしても何も創造が始まるわけではない、という所から始まる。
いうなれば言葉(あるいはデータ)でどう考えがまとめられ設計の手続きを踏んでも、それが人の心を動かすモノや空間である保証はないのである。あえて直截に言えば「表現」というのはまた別の仕事だからである。今「感性の時代」といわれるからには、創造イコール独創であり、日本の文化に新生面を開く風をはらんでいるものでありたい。
ところが最近やっと、このような複合的な日本の産業文化の中心概念としてのデザインを理解したかに見える企業が出始めた感じがある。
(ここから関わる「Gマーク」審査で、日産シルビアを大賞にした経緯などを語り、その背景にある、日本人が組織に所属して「自己の感性をどう企業に表現すべきか」について具体的な手立てを持ち合わせてこなかったのは仕方なく当然だった。それでこそ科学的で合理的な推論と技術に「全幅の信頼をおくべきだ」と言い得たのだが、今やそこから外れると感ずることも認めるという価値判断を持たないと、市場も商品も戦略的に把握できなくなってきている、とする)
6/8 21:15 334220


6月9日の追記
事象認識の再出発
「昭和」史をくくる中に、原理を持たないがゆえに技術的感性が直線指向的に日本人を縛ってきた経緯を見ることができる、と書いたが、そこで露わになったことは、このような世界観が深まれば深まるほど、その分、曖昧なものや土着なもの、感性的なものを意識的に企業文化という形ででも方法論化していかねばならない、という叫びである。
この場の例で言えば、本質的には重要ではないと思っている事(表現)が、意外とコト(商品や企業イメージ)の決定に難しくややこしい関りをもって還ってきていることへの素直な容認から始まろう。
来年は通産省の後押しする「デザインイヤーフォーラム」が推進する「デザインイヤー」とされている。「知的所有権」への取り組みなども含め、デザインをマクロに捉えた時、来年あたりを大きな一里塚と見立てることは時を得ていると思うが、それは日本の文化の出立法の転換期にもなるという意味を感ずるからである。
6/9 16:05 334330




あとがき:6月9日夜10時
今夜、息子の誕生日祝いということで一緒に食事をした際に、仕事の跡片付けの難しさの話になり、ついでに、この記事の発見の話をした。
ブログを開いて、「こうだ」と読ませたら、「何でこんなに難しく書くんだ? これじゃ、わからない」と言われた。
家内も、「30年、考えが変わらないからって、人に言うようなことじゃないでしょ? 一般性のない話よ」と。
自分では一般性があると思っているところに思い上がりがあるのかもしれない。読者には、この独りよがりを押し付けていることにお詫びを申し上げたい。


その上で補足する。
1980〜82(昭和56〜58)の辺りからは、ミラノに常駐はしなくなったが事務所を維持しており、年に1,2回出かけていた。39才から41才のころである。
この後、日本に慣れるにしたがって国内の仕事が増し、この記事を書いたころは、インダストリアル・デザイナーとしてはある頂点に至っていたのだろう。子供も出来、何も怖いものが無いような時期だったのかもしれない。この記事を書いたことも思い出せないほど忙しかったような気がしている。

肩書にちゃんと建築家とも入れているが、建築設計は前年度から、西田山荘、飯島山荘などを手掛けているものの、まだ論理性や社会性について試行錯誤状態だったが、プロダクト・デザイン系は渡米伊前からの本業だったから、こういう書き方になったのだろう。













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