「日本の建築」展を見た。

●この記事は、気ままでも気掛かりな思いを、日を追って追記するスタイルを取っています。



とんでもない企画だ。
さらっと見たが、よくこの企画を実行したと思う。
あまりに複雑な気持ちで、「これでいいんだろうな」と思う反面、簡単には考えをまとめられない自分を意識していた。
会場から離れて事務所に戻り、カタログを見ているうちに、例の癖で、このことについて自分の考えを述べておかねばならないという気持ちが膨らんできた。

(後述)
23:40/342693




この展覧会を見ていると、「建築って何だろう」と改めて思いを寄せてみたくなる。
明らかに「物体」としての構造物にならないと建築にはならない。
それに近代以降、やたらと理屈付けしてきて「建築」を歴史的に、もっともらしい「存在」にしてきた。
そこには技術の革新がもたらしたもの、時代が求めた変革や流行の流れ、既存の「空間」意識の変革や新しい発見といった要素に従って、多くの建築家(と想定できる人を含む)が「物体」を造ってきた。
結果的に、欧米文化の輸入によって拡散され、反発し、あるいは迎合して「物体」を造ってきた日本人の文化的足取りが出来たわけだ。

この企画は藤森照信氏が主導したようだが、その視点はよくわかる。
とにかく「変化する日本史に引っ掛かりそうで、意のありそうな物体はみんな取り上げよう」という意欲が読める。それを何とか細かく分類したのが9項目のテーマである。当初、「こんなに分けたって混乱するだけだろう」という気がしていたが、会場でではなく、カタログで見ていると、これだけのことも在りかな、という気がしてきた。
(後述)
9/9 17:30 342970 





明治維新を境に、日本人はどういう風に「洋化」を受け入れていいのかわからなかったのだろう。で、まずは「真似」しかない。
その前に、そういう「新しもの」に飛びつくメンタリティが準備されていた国民性だったことを忘れてはならない。そこには風習や社会規範を越えて「洋化」に憧れる社会状況が準備されていたことが大きい。信長や秀吉が、面白がって洋風の衣類を着てみたりしていたことを思い出してみるといい。多値抱合可能性文化とでも言おうか。


でも髪型や衣装は真似てしまえばいいが、住居や仕事の場となるとそうはいかない。仕事や生活の習慣が「全くの洋化」を許さない。そういう過程で、畳に椅子を置くような混合の過程を経て現代に至っているのだろう。
そこには、変えなくてもいい屋根や軒先はそのままにして、箱の中だけ洋化してしまうなどの「変な魅力」を生み出すことになるのだが、それらの変局の総体が、逆に欧米から見て面白い「変革」に見えたのかもしれない。
例えばブルーノ・タウトが決定づけて硬直化した「桂離宮型の日本美」という動かしがたいものを押さえておいて、「後はいろいろあるよ」という配列が可能になるのだ。実際、洋服に靴の通勤生活になれば、洋化を「真似だ」などと言っていられなくなる。
結果的に、コンクリートと鉄の技術革新の中で、残された日本型美意識と気候風土がもたらすものが入り混じって、多様な現代風景を造ってきたと言えるのだろう。だからそれは、「物体」としての単体建築が実験の対象でこそあったが、街路や住居周辺の環境(まちの景観)への関心ではなかった。
今度の展覧会は、その事の「総集編」であったように思う。


こういうことからも逆に我々があまり知らない、欧米人に造成された日本美、つまり彼らの見た「日本建築の美的イメージ」が、思わぬところに飛火している例を教えて貰える(展覧会場にはないが)。
フランク・ロイド・ライトはイタリアに行って(1909〜10)、カルロ・スカルパなどに自分の知った「日本美」を伝授したようだ。このためスカルパは、ライトと「日本に対する情熱を分かち合うことになった」という。(カタログ内論考3「世界の日本建築」ケン・タダシ・オオシマ)
どうりでスカルパの仕事には、こちら(自分も含めて近現代日本の建築家)がやるべきものを、「フィルター掛けした上で、先にやられたような感がある」が、このことだったのかという実感を与えてくれるものがある。
(後述)
9/11 22:35 343120





この企画の具体的推進者が判り、その考え方も明らかになった。
それは企画担当の前田尚武氏と倉方俊輔氏であり、この2人が語ったことが記録されたからである。
「一般的な(普通の人が見ても判るという意味を込める)建築展・普遍的な建築展として根付かせたいため、あくまでも専門的な建築展とは、少しスタンスが違います」(括弧内以外前田氏:以下前田氏=M、倉方氏=K)


やはり、他に類を見ない建築展にしようという意欲が感じられる。
「要は日本における建築の展覧会は、まだ黎明期であって、キュレーションの段階に達していないのでは」(K)
「長い建築の歴史の中で、建物だけを点で結んで見ていくと、それは明治以降の「建築の歴史」だけを追いかけていることになってしまいます。建築は建築家だけの専売特許ではありません」(M)
「建築物を展覧会場に持ってくることは不可能です。美術展とは明らかにギャップがあり、もともとそのようなジレンマを持っているわけですから・・・そこでゼロから考えることが必要でした」(M)
「・・・9つのセクションンの1つ1つで個別の展覧会が出来るのでは・・・。全体で何か訴えるとか、何かにもっていこうとはしていません」(K)


「もともと日本建築は、建築がないところに仏教建築が入ってきて始まっています。だからあるものに合成したものでしかなく・・・それも1つの日本建築の定義だと思います。・・・今回の展覧会は近代以降の話だからです。そもそもそれ以前の建築は建築として認識されていません。伊東忠太が日本で初めての建築家であり、近代以前からある未開芸術をアーキテクチャーとして、その中から今の建築家や歴史家が引っ張り出していったのが数寄屋建築や日本建築なのです。ですから、西洋と日本が異なることが重要なのです。建築という概念は伝統的に日本にはありません。建築家もいないし、建築もない」(K)
「・・・建築家は誰を取り上げていて誰が入っていないという話に終始します。それはとても狭い世界の話であって、だからひとりの建築家の展覧会をやると、きれいに整えてしまう。でもそれで伝わることと伝わらないことがあるのです」(K)


9月4日から始まったこの書き込みも、このように話してくれれば、当方が言いたいことのかなりの部分が代弁されたように思う。
(前田尚武氏:森美術館 建築・デザイン プログラムマネジャー)
(倉方俊輔氏:建築史家/大阪市大大学院准教授)
(このトークはJIA MAGAZINE 353号による)


(後述は一応終りにします。何かあれば又、追記します)
343411 9/15 23:45










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