「釘を打て! 」では済まない

  • また、追記あり  ●以降 12/01 00:30   348960



「へえ!、出してくれたかい」というような感想を持った自分のコメントが、小さいけれど「建築ジャーナル」12月号に掲載された。
これも建築家世界の話だが、ご参考までに元原稿を添付します。

テーマ「は、批評の在り処」で、パネラー:倉方俊輔(建築史家、最近、森美術館での「建築の日本展」を全体監修、話題を呼ぶ。大阪市大准教授)、豊田啓介(建築家、東京、台北で多分野横断型で活動、台湾国立交通大学助理教授)、藤原徹平(隈研吾事務所を経て独立、受賞作品多数、横浜国大大学院准教授)、司会:五十嵐太郎東北大学教授)。以上のように、皆、若い。
公開討論で、その場では発言できなかったが、後から感想と意見を送ったもの。10月20日 建築ジャーナル編集部にて開催。




「くぎを打つ場所を探すべきだ」

建築は確かに個別であり、この国の現実を考えると、「身近に出来ることをやる」、「他人の仕事を褒めてやる」というような会議の流れになったのはよく納得できた。
事実「平成よ、終れ!」という倉方さんや、藤原さんも言う、「昭和からの50年が引きずられ、何も変わっていない」という主張の中からは、当面、この社会の硬直性を打破する本質的な手段はない、と言っているようにも聞こえた。事実、建築評論もすっかり社会に順応している。
それだからこそ、「身の回りで出来ること」だけやっていても、この社会構造の変革のための「釘刺し」になることは生まれないのではないか、という気持ちがよぎった。
より構造的かつ本質的にこの国の「駄目なところ」を摘出して、そこに釘を打っていかないことには、平成が終わっても何も変わらない、となるだろう、と思わずにはいられない。
それは建築基準法建築士法などの抜本的な見直しを含め、政治家やメディア人種の再育成、建築教育の改革など、日本の社会を構成している根本にまで至るが、現状では、「建築士」はもちろん、「建築家」でさえ、出来るだけ法規に順応することを当然と考えるように体内化されてしまっている。
AI化も見込んで世界的に、産業構造が感性価値評価へシフトし始めているというこの時に、建築家にこそデータと経済性万能へのブレーキ役が出来るのに、その前に潰されてしまっている。こういうことに視点と行動力を持つ建築評論家や建築家集団も生まれていないのは、この国の悲劇としか言いようがない。気の付いた有志は改めて協力し、くぎを打つ場所を探し、実際に打っていくべき時だ。



● 後から読むと、自分のことだが、建築誌の討論会のためとは言え、やっぱり狭量、浅薄な意見だなと思う。これは、言ってみれば青踏派の文学のように、実社会の実需を把握した言い分にまでなっていない。
実際の日本社会を動かしているのは経済(カネとそれを動かす仕組み)であり、失われつつあるとは言え、いまだ主導権を握っている政官財のトップ人材、それを支える大手企業と追随するメディアである。こういうところには本質的には何も響いていない。感性価値社会の登場だと言っていながら、である。相手となる者は、既存体質に忖度して逆らうことを恐れ、変革への意欲が薄い。 今後は、この辺へのさらなる論議と戦略こそ必要だろうと自省する。






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