大正の時代を想う

浜辺の歌



この間テレビを点けたら、オーケストラ最後のアンコール2度目に「浜辺の歌」を演奏していた。その演奏会の主演曲はブラームスの「第4番」。どこの楽団かと思ったら、NDRフィルハーモニー楽団(アラン・ギルバート指揮)とかで、指揮者とも聞いたことが無い名前だったが、楽団員はほとんどがヨーロッパ人であり、編曲もそうだった。演奏は巧かった。
歌手はいなかったがオケでも十分美しかったし、自然に歌詞が浮かんできた。


  あした浜辺をさまよえば
  昔のことぞ、忍ばるる
  風の音よ、雲のさまよ
  寄する波も、貝の色も


聴いていて感無量になった。やはり自然を謳っている。「荒城の月」もそうだ。耳のどこかから忍び込まれた日本人としての感情が湧いてきた。それを外国人が演奏している。
調べたら、この曲は大正2年(1913)の頃のものだそうだ(大正7年:1918という説も)。
その30年前に、鹿鳴館(1883:明治16年)が建物も、中での行事も参加者の身なりも、全く欧米の真似であったことは無意識でも判っているつもりだったが、実際、このことを彼らはあざ笑っていたという記述がたくさんあると知った。やっぱりそうだろう。あれから130年ほどかけて、やっと欧米人が日本の歌をオーケストラで演奏してくれる時代になったのだ。
この曲はいつ頃から衆生の耳に入ったのだろう? 思い出せば、我々の世代では「荒城の月」だけでなく、「箱根八里」「かなりや」なども、気が付いたら誰でも知っていたし、10才未満でも、これが日本の歌なんだと承知していたようだ。これらの曲が世間に知られたのは、「浜辺の歌」より10年以上古かった。明治34年頃(1901)で、国を挙げて大国化を求めていた時代である。この後、日露戦争(1904)に突入した。
いや、また時代情報にこだわったが、維新が一段落して、民心が新しい欧化時代への予感に心が震え出した、そこに続く大正時代への想いが募る。私事だがこの大正2年に父が生まれている。我々にとって、そういう時代距離感なのだ。あの藤田嗣治はこの年、1年前に結婚した妻を捨て、パリに旅立っている。


歌と時代の空気は個人の脳裏に密接に繋がっている。それも主に、子供時代から青春時代までだろう。加齢化するほど、うざい雑音の集合体のようにしか聞こえなくなる場合が多いのでは。ある時代までは何らかの流行歌が生活の廻りで流れていてそれらの曲を聴くたびに、当時の生活や感情の実感が想い出されてくる。それは当然、その世代、世代でのずれがあるのは仕方のないことだ。
若い人達には聴いたこともないかもしれないが、「異国の丘」「湯の町エレジー」「憧れのハワイ航路」「青い山脈」「長崎の鐘」(1948〜49:昭和23〜24年)などが、夜道や身の廻りで歌われていて、かすかに記憶がある。ということは自分でも、意味も解らずに歌っていたということだろう。「リンゴの歌」とか「東京ブギウギ」とかは歌う気はなかった気がする。
この頃の記憶があるということが、戦後のどさくさのイメージがかすかに残っている世代ということか。後になって、本気で自分たちの歌だと思ったのが「テネシーワルツ」(1952:昭和27年)だったりする。このころから、憧れはアメリカになってしまった。






349265 18:45 350000 12/16 21:05