大きな変革の波よ、来い! 田根展追記

●「田根剛/未来の記憶」展見学を追記 18:40



出来ることをやる、だけでは足りない


一昨夜の建築家仲間での忘年会の帰りがけに、松田・平田設計事務所の取締役から、「大倉さん、次の本を、そろそろ出さないんですか?」と言われて思い出した。
実は、すでに何人かの方からこのことを言われていて、「ふーん、そろそろねぇ」という気にもなりつつある。内閣府の役人にも褒めてもらったし・・・。
でも文章作家でもないのに、読むに足る一書をまとめるのは並大抵ではない。しかも、言いたいことが言葉で言い切れるものではないし。家内は自分の父親が、書くたびにボケたと思っていて、「書くのはもう止めなさい。ほとんど(仲間うち以外)誰も読まないわよ」とさえ言う。
ただ、何かまとまりつつある。しかし、一般社会への説得力のある文章にするための、極め付きの具体的アイデアがまだ見つからない。


忘年会と言っても同業者ばかりだから、隣席、近席間の話は全て建築やデザイン関連。建築家協会の問題やら、「デザインは形でなく、考えをまとめること」などの発言から生ずる議論の連発で過ごす。
判っていることは、「デザインとは何のことか、日本社会では誤解のまま来ていること」、同じ意味で「日本社会がその本質的な意味のデザインを軽視している、というよりか、判っていない。その結果、経済評価しないということ」。つまり「デザインを生み出す職業人に、出来るだけカネを払わない国になっていること」「この結果、才能ある者は多く居るのに、このままでは感性価値を優遇した未来国家は望めないこと」などである。
アーティスト、ミュージシャンや芸人がそのままでは食えないこと、それは判っている。それを育てないという根本の問題であり、その上でデザインは社会的機能があるのだ。
そこで発する問題は「ではどうしたらいいのか」ということだ。忘年会で酒に任せてワイワイ言っているのは楽しいが、具体性が無い。


具体的な話、もしこの考えが認知され社会的に施行されているなら、自分の息子に「他の仕事(建築・デザイン系ではない、自分が思いつく仕事)を探せ」などというはずが無い。悲しいことに、結果的には親のさまよってきた同じような道を息子は歩き始めているが、こうすればいいという道を具体的に教えることが出来ない。というのも、真面目に深く努力すればするほど食えなくなるからだ。
大手のクライアントが、代が変わったり、社長が変わったりすると継続的な業務契約が切られてきた。そんな単純な問題ではないと思ってきたのが間違いだった。事業継続とは他のルールだったのだ。この国の「デザイン」へのトップの理解は、我々が思う「本質問題」ではなく、その場の人間関係(人脈、有力者の後押とかも含め)だったり、単に営業能力だったり、社会的名声だったり、その場のコスト戦略効果(資本力も含めて)だったりで終わっていた。こんな中での、モノや定量的なサービスを売るのではない、「かたちのない考えを表現する仕事、しかも美と体感に奉仕する」に向かっているのでは事業の継続や拡大はとても難しい現実がある。
更に近年、建築設計で言えば、何度も述べてきたように、あたかも建築家を犯罪者見立てで判定するというルールが具体化し、一方ネットの進化が、一般の発注者(設計依頼者)さえ、レベルの低いコンペ(コンクール)仕立ての判定者にまで仕立ててきた・・・。あ、ここで言ってもしょうがない愚痴になるので、もう止める。
ともかくも、自分の子に後を継がせたいと思うような新職業ルール観を何とか、この国に育てたい一心で、本も書こうとするし、セミナーもやろうとするし、人とも接触しようとしている。塾もやればよかったのかも。少なくとも現行の日本デザイン協会(NPO)はこの目的にも役立つはずである。すでにあちこちで書いたように、法改正や知財権へのアプローチもあるはずだ。
過日、ある集まりの後の懇親会で、これも隣の若手と雑談中、「天皇陛下、あるいは皇太子殿下でもが、一言『大事なのはデザイン』と言って下されば、日本社会は一気に変わる」と言ったところ、「あ、そういう考えもあるんだ!」と驚かれたことがあるが、この考えは敢えて口外しては来かったが、イギリスの皇室の例から20年位も前から思っていることだ。ここで言えるのは、日本がそういう体質を持っているということである。事実、江戸以降、黒船の来航と太平洋戦争での敗北という、いわば外圧と、結果的に皇室の関与が無ければ、この国は根本的には変えられなかったのだ。
さて、この後も無理なのか、それとも、このネット時代が変革をもたらすのか。息子にしてあげられることだけでも考え、実行したい。




●「田根剛(たねつよし)/未来の記憶」展見学を追記
ここに追記する筋のものではないのだろうが、息子の話と年頃では繋がる所があるし、外国に居ることで判ることもあるので、追記としてしまう。
アアルトの見学記について述べたことだが、結局、残された時間の少ない身にとっては、人の仕事はもうどうでもよいというところがある。
この展覧会も、ただでさえ東京オペラシティ・アートギャラリーでは行きにくいと思っていたが、若者が何をどのように展示しているのか、どうも気になっていた(今月24日まで)。


行って見て、結果として、何でもやってしまう、その若さに魅了された。
エストニア国立博物館」設計競技で、あの、捨てられた第二次大戦時の空港滑走路を活かして、発射路のような建物を提案した若者である。
外国人であり、得体の知れない若者の提案を採用するところが凄い。2016年に竣工して話題となった。
あのザハが獲った「新国立競技場コンペ」にも応募し、「新古墳」案で選定者とその周辺には話題になったようだ。このように、落ちても構わないから、国際競技には何でも応募する、頼まれれば展示会の内装から、小さなリノベーション、日本の酒醸造会社の酒ビン・デザインまで何でもやる、という魂胆らしい。
大磯と都内の個人住宅の施工例が出ていたが、なかなか実験的で面白い。本人は、「実験ではありません。周到なサーベイの結果です!」と言いそうだが、そのための調査資料や、現場で拾ったもの、各設計ステージにおける10個以上のミニ模型などが並んでいたり映像で見せている。スタッフには模型の役割について語っていて、相当の執念を持っていることが判った。
1979年、東京の生まれというから、39才だ。自分のその年の頃を思い出して他人事でない感興に襲われた。ああ、ヨーロッパでこそ自分を全開放出来たあの時代!
北海道東海大学建築科の出で、国内勤務経験は無いようだ。それが良かった。
他に資料が無いが、パリにアトリエを持っているようで、紹介映像で見ると、若者ばかり10人から20人ほどいるようだ。それで本当に良かった。当面、現地で受注する仕事以外、日本に事務所を移しては駄目だよ!





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