追い詰められ、言葉に頼る

 

何のために表現するのか

―「たかがデザイン、されどデザイン」程度の意味はある歴史の過程で―            

 

 

しばらく前の夕食時に、家内が見ている契約テレビ番組AXNミステリー・アガサ・クリスティーの「検察側の証人」シーズン1:1,2部をしばらく見ていたら、あまりに面白く、とうとう予定を変えて全部見てしまった(1/25)。

登場人物が多ければ、その分、もし貧相な男が出てきたりすれば、それが主役だとは気付きにくい。

その主役がこの弁護士で、極めて正義感に溢れ実に誠実だが、生活は豊かでなく何か不満そうで不吉な感じの妻を持つ、魅力のない小さいハゲ男だった。

ある若者が、大金持ちの未亡人に気に入られ、取り入って遺産まで相続できる手続きをした挙句に殺した、とされた裁判の件で、この若者の「やっていない」という申立の弁護人になり、次に疑われた恋人から、家政婦を犯人に移して絞首刑送りにした。若者は晴れて罪から解放されるが、まだその後の深い闇があった、という話。

俳優の選択が良く、人間の弱みの把握がしっかりしていて、映像も美しく時代設定も確かで引き込まれた。後から事件が反転し、最後に頼みの綱である妻の夫への根本的な不信(反対する妻に逆らい息子を戦場に送り殺した)を知り、ラスト・シーンで夕日の沈みゆく遠浅の海に向い入水する。

監督の名前は読み忘れた。

このドラマを見ていると、もし正義と思って真剣にやっていることが単に空転するだけの活動だったり、一番、頼りにしているはずの妻が実は夫に恨みを持ち、形だけの夫婦生活に耐えているだけだったとか、空恐ろしい物語がもし、わが身に起こったらどうしようと身が引き締まる。

こういうことが、これほど深刻でなくとも、我々の創作活動にも大きな影響を与えるという話は、また別の機会にしよう。

 

 

同じ映画の話だが、大学生になった頃か、「太陽がいっぱい」を見て大いに興奮した。ストーリーのドラマ性もあるが、何しろ音楽と地中海の空気感がたまらない。イタリアに行きたいとの思いを募らせたのも、この映画も関係する。

「恋人たち」だって、「我が青春のマリアンヌ」だってそうだった。あたかも自分が彼の地の事情に深く関わっているかのような気分になったものだ。

こういう経験があると、映画監督にも憧れる。しかし人間観察には自信が無く、自分はとても監督にはなれないと自覚していた。

映像は今でも、何とはなしに見始めても引き込まれてしまい、抜けられなくなる魔力がある。

 

 

そこで付け加えておくべきことがある。それは、映像や音楽は自分の創造感性に関り、実に気になる対象と意識するが、その一方で、ここでは「文学」について触れていないということ。

デザイナーや建築家は元々視覚を軸に動いていることから、創造行為については言葉の世界を主要な相手にはしていないはずだ、ということ。異論はあろうが、ここではそういう観点に立っている。言葉を信じないとは言えないが。

気が付くと、逆に日本社会では「文学」、つまり言葉で表現する世界への優待感が大きい。これは明治になって輸入された価値観の伝達が、体現化された行為(視覚的に認証される行為)を伴わず、言葉だけで認知されて来た可能性の高さと関わっているように思う。こういう観点で演繹して言うと、例えば言葉だけで規制している建築基準法なども、実は本当の空間創造者の脚を引っ張っているはずだと思えてくるのだ。

 

 

ここで思うのは、言葉を使い個人の生活が作り出す、生(なま)の人生とその限界に関わるようなドラマ分野(映画でも小説でも、何でもそれを表現する技術を持つ分野)では、デザインだの、建築だのといった「モノ」あるいは「ソリッド(固体)を相手にする空間構成」などを相手にしているのとは全く違う創造性を発揮していて、我々の仕事はむしろその「上塗り性」のような感触を抱く、ということ。しかも利用者や住み手の事情を聞きとり感じ取り、それを活かすというのだから、ますます個人の創意から離れていく。

創造対象としての「モノ」や「空間」自体は感情を示さない。それを受け取る人間の側が感情を抱くのだ。つまり、ある種の受け身型のクリエーション。ところがここで言った「ドラマ」制作の例では、創作対象がすでに人間の行動と感情である。受け身ではない。これでは、ある意味で負けるなぁ。

かってグラフィック・デザイナーの亀倉雄策が、思いついたように言った言葉、「たかがデザイン、されどデザイン」の意味はこんなところにもあるのかもしれない。

とは言っても文章でも、映像でも、それを読んだ人、見た人の心(精神)に影響を与えるような内面性に残ってこなければ、口だけの祝詞(のりと)と同じで、その場で消えていくだろう。

言葉(文章)はこれまでは紙媒体、映像はフィルムに依っていたが、今は何でもデジタル・データとして残していけるが、それ自体はアートとしてのモノではない。モノは、それが風雨に耐えて残った紙や石、あるいは人骨であろうと消失しなければ、受け手の感情を呼び起こす状況記録として残っていく。だから実態としてのモノが生み出す力を信じようとするわけである。ところがそのモノや空間が、あまりにも増産された社会となり、ゴミ同然化している。やはり「たかがデザイン」か。

 

 

そんな状況から、それでもここで言葉で説明を試みている」のはなぜか。

これも個人的な主張だが、デザインや建築は仮説の実践という夢の時代を終わり、やることが無くなった。確実に残っているのは「個人や家族、生活者の内外面の豊かさに加担するような経済行動」だけである。それはそれで生きる以上、やればよい。

かと言って、「個人の創意が歴史を創る」という因習的な想いから逃れられないためか、表現対象に行き詰った現代でも、創造能力には人に任せられないものがあると信じたい以上、その考えだけでも「表記」しておかねばならないと思い、追い詰められる。それが、当面言葉に頼る理由である。

 

(起草20190126)