言葉の理解に大差

テレビの番組で、筋委縮症と言うのか、動きが取れない若者の話があった。

食事中に偶然、これを見ていて「こんな病気があるのかね」と言ったら、女房が突然、怒り出した。「そんな言い方は無いでしょ!かわいそうにとか、そう言うべきでしょ!」と。

こういう症状を知らなかった、という話ではまったくない。スティーブン・ホーキング博士の例を待つまでもなく、よく知っている病例だ。言った意味は、改めてこんな若者に発症する、この種の病気に驚いた、という意味だった。

僕の言い方が、客観的過ぎるということか。状況を判断したら、こんな言い方はないはずだ、あなたはいつも他人事のように話をする、ということの様。しかし、当方はこれが理解できない。客観的な感想がなぜ悪い? どうも状況を判断して相手にすり寄る発言が出来ない場合、ある種の発達障害だとの判断があるようだ。

解りやすい例をだせば、結婚したての頃、ミラノでの生活で、仲間を呼んで食事でもしていた特だったのか、連絡先を聴いた時に「電話が無いので」と言われ、「何だ、電話が無いのか」と言った一言が、女房の僕への評価を下げた始まりだったようだ。相手の気持ちを考えれば、そんなことを言ってはならない、ということだった。

それは判るが、どうもそれほど相手の気持ちを忖度する必要があるのか、という人生観が僕には備わっている。芸術家として育ち、イタリアに10年もいれば、自分の気持ちを主張するのが正統であろう、という心理は、消え去らないどころか、むしろ正統性を主張したくなる。もっと言えば、日本人の持つ忖度心理のいい加減さに飽き飽きしているのだ。

最近、これもある意味で偶然見たのだが、鉛筆だけで人物像、それも大病に悩む妻の横で、その姿を大きく描く画家の1時間にわたる紹介映像があった。妻が「苦しい。死にたい」と言っている傍で、「大丈夫だよ」ぐらいは言っていたと思うが、ここまで行くとさすがにちょっと残酷だなと思ったが、絵に生きることが生命の維持になっているこの男にとってそれは仕方のないことだ、と言うのは納得できた。これを女房に見せたかったが、検査入院していたこともあり、もし見せても、また揉めるのは必定と思えた。

このような自分の体質が災いしてか、あるいは母親の教宣が効いたのか、子供が出来て自信をつけたのか、最近は息子までが「親父はおかしい」と明言し始めた。忖度しないなら、自分の主張に責任を取るのかと思えば、逃げている、ということのようだ。子供の言い分を出来るだけ聞いてやろうとの想いの結果が、このような事態を招いている。

 

このように、言葉の理解は家族の間でも、家族だからこそわかることかも知れないが、非常に難しい。

そこに「形容詞の人か、動詞の人か」という興味ある記事を読んだ(「日曜に思う」朝日新聞12/29、編集委員:福島申二)。

「先月亡くなった中曽根康弘元総理が新党さきがけの代表幹事だった鳩山由紀夫元首相を『ソフトクリーム』にたとえたことがあった。とかく甘めな言辞に対して『政治は、美しいとかきらりと光るとか、形容詞でやるのではなく、動詞でやるもの位だ』と注文を付けた」という。

終りの方では、こうも言う。「私見を述べれば、安倍晋三氏も『形容詞の首相』であろう。振り出しの『美しい国』をはじめ、『地球儀を俯瞰する外交』『女性が輝く社会』『世界の真ん中で輝く日本』……」

「民主政治は言葉と、言葉への責任によっておこなわれる。それなのに国会ではまともな議論さえなく、政府は疑問にまるで答えようとしない。高をくくって思い上がる政治が極まる年の瀬、……」

話が拡散したが、言葉の難しさについては一貫してると思う。