これまでの日本から脱皮したい

格差社会を維持する規制社会としての日本




いつまでも元気な作家、五木寛之が(笑)言っている。
「われわれの社会は、自由であって人は固定化されないのが大原則のはずなのに、現実は格差社会。この問題は、格差があることではなく、格差が固定化されること。そこが問題なんだと思う」


よく言ってくれた。
ところで、この発言はいつのことだと思われるか。
実は2010年の1月という古さ。
週刊朝日」の多分新年号。「まだ続く『鬱の時代』———『諦める』ことからスタート」というタイトルで、姜尚中と対話している。
何か、今と何も変わっていないような気がする。


何でこんな記事を見つけたのかは省略しよう。もちろん、偶然である。
タイトルから見ても、新年から言うには暗い時代だったようだ。
仕事に夢中だったので気が付かなかったが、それでもプロダクト・デザインの仕事はほとんどなく、大手のスケルトン改修が多く、中国での設計業務に関わり始めていた頃だ。結局、頓挫したが、事務所運営に危機感を持ち始めていた時代だったのは確かだった。
ということで、また自分都合の年代記に行きそうなので、元に戻す。


今度、「日本型規制社会と知的生産―イタリアン・セオリーに学ぶ」というタイトルでセミナーを行うが(*)、そんなこともあって、ひょっと目に着いたという訳。
この年になって考えてみると、人生にはいろいろの転機があるが、その多くに規制と格差が関わっていたことが判る。その上での運と偶然である。
元々の資質や運、偶然は仕方がないが、その後に個人の能力を抑え込んでいるのが格差と規制である。特に日本は、一般的な生活者層(中流)が多いということを考えれば、出発点はかなり一列に並んでいるという気がする。それを考慮に入れての話だが、その後でこれらが強烈に働いているという実感である。

まずは学歴格差に始まるもの。大学に入った途端にランク付けされてしまう。当然、いい大学には学ぶに足る先生、ハイレベル社会からの関心も情報提供も多い。それを作っている親の家庭環境と資金力。これらを混ぜ合わせて、「差し伸べてくれる手と情報」が格段に違ってしまう。これが社会にでての加速器の差にもなる。それが人脈などの背景を得て固定化する。
次に規制。気が付くのが遅かったりして、何かを始めようとすると年齢制限に。本来「その方面」に才能があるのに資格がとれなかったりして不可に。手続きが複雑で難しいので対応できない…。そんな規制は山のようにあり、しかも専門性が高いので、その分野だけに深入りした者でなければ解決できなかったり。つまり専門分化であり、トータルな把握が出来ないので個人では生きない、とか。


この国はこういう見えない縛りで出来上がっている。
70年を越えて生きてくると、この縛りがよく見えてくる。個人の能力を最大限に活かして、何とか明るく楽しい日本社会を創りたいものだが。
何だかんだとやっているが、疲れからもあり現状の格差と規制に安住してしまっている人が多いので、自分でさえ無意味なことをやっているという気になることも多い。

「われわれの社会は、自由であって人は固定化されないのが大原則のはずなのに…」
改めて9年前の五木の言葉が目に留まった訳である。



* 2月26日(火)6:15〜20:00 日本建築家協会サロンにて
   パネラー:神田順、連健夫、山本想太郎、大倉冨美雄(進行)
   神田先生の主導する「建築基本法制定準備会」の背景に「イタリアン・セオリー」があることが判り、ここから問題を解き明かしたい。
会費:一般1000円、学生:500円、後での飲み物代を含む。
出来れば、後程チラシを添付したいと思う。




・354660 20:00