ヨーロッパは近いようでも、遠い国々だった。

人を恋うる歌(妻を娶らば才長けて…) という曲があるが、いつ頃から聴き出したのか、想いもつかないが、昨日、今日、口をついで出てきている。

4詩目が凄い。

 

ああ、われダンテの奇才なく、

バイロン、ハイネの熱なくも、

石を抱きて野に歌う、

芭蕉のさびをよろこばず

 

これは、一度聞いてから忘れられない。何という西欧ロマンか。

与謝野鉄幹の作詞だが作曲者は不詳とのこと。1904年(明治37年)頃に公知されたようだが、同32年、旧制一高寮歌「思えば遠く」が元歌との説も。

今し思えば、この明治も後半になると、日本は富国強兵ということで、夢のように浮足立っていたのではないだろうか。

戦友(ここは御国の何百里…)もこの頃の歌だ。

今、個人データの作成中だが、新型コロナ・ウイルスの出現という時代変革期を考えても、この時期の後に来る「スペイン風邪」(1918~21)という近似大災害から100年あまり、という歴史的区切りに近い。

ちなみに、わが父親は大正4年(1913)の生まれで、この曲の出た10年余り後だった。

それで、こんなことをデータに書いてあるのを転記したが、この年になると、寮歌のようなものでも、妙に心に滲みてくる。例えば「琵琶湖周航の歌」。

ヨーロッパは近いようでも、遠い国々だった。

ついでに、転記事項をつけておこう。

 

1904(明治37年)は日露戦争があり、このころ枢密院議長の伊藤博文を挟んで文官、武官の対立が深まっていた。

1905(明治38年)、このころが新聞社(メディア)の民間誘導の始まりであり、情報による市民文化への影響の分水嶺だった。事件としては、日露戦争の勝利にも関わらず賠償金を取れなかった(ポーツマス条約)明治政府に怒る市民を新聞が扇動、とある(「日本国記」百田尚樹幻冬舎。主意p315)。

またこの頃を転機としてアメリカが日本を嫌悪する側に廻り始めた。歴史に「もし」があれば、この頃であろう。

「もし、日本がアメリカに満州の権益を分け与えていたなら、対日政策は変わっていただろうし、中華民国の抗日運動を支援することも無かったかもしれない」(解説:同上書p341~343)

 

コロナ禍だ。どこに向かって発信すべきか?

駄弁は止めよう。下手な文章は書かない方がいい。

そう思っても、つい書いてしまうことがある。本来なら言葉にならないことをぐちゃぐちゃ考えているわけだが、ある出会いがあると、「ここだ。俺の気持ちを伝えるのは!」などと思ってしまうのだ。

その例が、「どうする『新型コロナ後』の文化振興策―『イベント助成を考え直し、税金投入すべき芸術とは何か問うべきだ―」(日経新聞5/3:瀬崎久見子記者)を読んでからだ。

書きだすと、つい夢中になる。言いたいことがほとばしってくるからだが、結論を言うと、それは自分都合で、実は誰に言っているのか、何が言いたいのか、一般の人には良く判らない文章になっているからだ、という。

「という」と言ったのは、自分では気が付かないそのことが判るのが、悲しいことに家内に見せて「どうだ、これで送ろうと思う」と言った時に、同じような言葉が返ってくるからだ。

家内いわく、「この記者のことを調べたの? 相手にされないかもしれないわよ」と。

事実、ネットで検索したら少ししか出てこず、それもどうやら演劇、ミュージカル、コンサートなどの評論が主な仕事のようだった。

やはり違いそうだ。文化、芸術でも、デザイン、建築、都市景観等だったら、どこの誰に言えばいいのだ?

文化庁? 宮田さん? 彼なら知っているが、知りすぎている面もある。それでも原稿を協会理事たちに見せて、合意があれば送ろうか。