何をしていても膨らむ思惑

人のことを書くのでなく、自分のことを書こう。

コロナ対策で自宅自粛していても、どんどん時間が経つ。自分が何をやっているのか、よく見つめると、普段ならやらないようなことがかなりの時間を取っている。

まず食事を自宅でほとんど取るとなると、安全そうな店での食材探し、簡単にせよ料理時間が要る。テーブルセットと皿洗い、ゴミの処理。当り前だけれど、普段は外食が多く、自宅では週に2、3度だった。しかも家内の手伝いか分担作業だからあまり気に掛けなかった。しかも飲み水、酒、調味料なども普段の数倍必要なので、足りているか気配りも大変。

それにちょっと近所への食材買い出しでも、帰ってきて、包装紙やパックを全部、アルコールで拭く。靴の裏には消毒液を吹き付ける。手の消毒、マスクを棄てる、うがいをする。着ていたものは消毒液を吹き付けてハンガーで干す、こんなことをやっていると、どんどん時間が経つ。ちょっと神経質すぎるかも知れないが、高齢者対応ということで、家内が異常に敏感。これに合わせているからでもある。

それはともかく、時間がないのに、やりたいこと、やらねばならぬことが多すぎる。

コロナで社会が変わるという実感を受けて、新聞やTV、雑誌情報に注意していることが多くなり、これも時間を取られる。

あらゆることに気を取られ、それゆえの新しい発見もある。

例えば昨夜、テレワークをしたが、自分が話している間、他の人たちの

微妙な反応表情が読めず、何かディスプレイに向かって独り言を言っているような気になった。考えを論理的に一貫して話すにはいい場所だろうが、勝手に長引かせたりすることにもなりそうだ。話している間は、「でも」とか「フーン」という相槌のようなものが聴こえず、みな黙って止めるまで聞いている、という感じだ。

例えば、こんな気づきを書いたり、ある人に送ろうと読後感などを書いていると、連鎖反応的に、自分のやっていること、やってきたことへの思惑がどんどん膨らみ、とても簡単には文章に出来ないような状態になる。

これが、この数か月の自分の姿。

FBが面白い

ブログの方に「スプト二子」のことを書いたのだけれど、ここ数日、フェイス・ブックのデータにある面白い記事に「素直に」感心している。「今頃、何だ」と言われそうだが、FBの記事はずっと面白いと思ってきた。でも見出すと変に時間を取られるので、出来るだけ避けてきたというのが実情だった。

いくつか挙げよう。

 

・胴体無しの旅客機

あるアメリカの航空会社が開発中の、翼だけで胴体無の旅客機計画(MAVERICという)の話は面白い。これでエネルギー消費が20%削減出来るとのこと。窓から見るのが難しいのが欠点だが、着席の方法はいろいろ自由が利くそうだ。主翼の中が客室になるわけだから、従来のトンネル型と違い、横に広がる。このタイプの軍用機は1980年代には既にあったと思うが、フライト性能やくつろぎ感に問題が残っているのかも知れない。それに、完成され、パターン化された乗客管理、安全管理、誘導管理などの問題もあるのかも。いずれのしても、胴体のある機体を両翼で支える場合、胴体は浮力に役立たないのはよく判るので、この計画は、どんどん現実味を帯びてくると思っている。

 

・ゴートルード・ベーム100才展

今年100才になるドイツ建築家の展覧会。どこでやっているのかは見逃したが、多分ドイツ国内だろう。ブリッカー賞を取った「ュハネノゲスの巡礼教会堂」(名称の記録違いだったら後程修正)は、写真だけ見たことがあるが、実態は判らない。一度見てみたい。ベームのことはほとんど知らず、自分の考え、感じる建築とは程遠いようだけれど。

 

・サンミシエル・ダイギルへの岩山

フランスのル・ヴイ・アン・ヴァレーという所の近くにあるという、尖塔状の岩山の上にある、城郭とも住居とも言えない、更に尖塔のある建物が面白い。岩山の上や中腹の建造物は、ギリシャや中国などにも何やらいろいろあり、見ていないものも多そうだが、これは初めて見た。

内庭も何もなく、よくもあんなものを建てたものだ。後で場所を調べよう。

 

明治維新に関わった人物の大政奉還の時の年齢

誰かがアップしてくれたのだけれど、ちょうど知りたいと思っていた個人データ記録にぴったりだった。

第二人生で、自己の総集編のようなことをやっていると、いろいろな事件や創作年時の関係者の年齢を知りたくなる時がある。特に明治維新などの歴史的事件の時、あの男は何才だったのだろうと、ふと思うことがある。ところが調べるのは意外と大変だ。同じような問題意識を持った人が居たのだろう。勝海舟から小林寿太郎まで15人について知らべてくれたデータが掲載されていた。ちなみに勝は44才で、この15人の中で最年長。小林は12才だった。吉田松陰37才、福沢諭吉33才、徳川慶喜30才、伊藤博文26才など。皆、凄く若造だった。

心に滲みた歌/子供時代の心情。妹のこと。

先日、「ヨーロッパは近いようでも、遠い国だった」と書いたが、実はこれは自分が感化された想い出の歌の話から来ていたのは明らかだ。

今、個人データを扱っていると妙に子供時代や25才くらいまでだろうか、そのころ聴いた歌謡曲や軍歌、童謡が耳にこびりつき出した。ラジオしか情報が無かった時代ならではのことだろう。

その一つが「あざみの歌」である。

 

山には山の愁いあり、

海には海のかなしみや、

まして心の花園に、

咲きしあざみの花ならば

 

ネットで見ると倍賞千恵子の歌が知られているようだが、シンプルで清らかで、これで十分だ。子供っぽくて、ただ悲しみに暮れているようだし、うすら寒い霧が立ち込めた、なんだかよく見えない青白い風景があるように思えるだけだけれど・・・。

いつも歌っていたわけではないし、気にも留めないできたが、妙に郷愁をそそられている。もしかして母親が歌っていたのだろうか?

それにしても曲が世に出たのが1951年(昭和26年)ということだから、もう10才にはなっていた。この頃は何をしていたのだろうか。小学校2、3年だったのは分るが、個人データなどを扱っていると、成人になっての仕事や事件などばかり考えてきたので、この少年時代は、ふっと抜けていた。

今になって、この作曲家:八洲秀章を知った。「山の煙」、「さくら貝の歌」など、同じように琴線に触れる曲の作者だった。何て懐かしい歌ばかりなのだろう。

この曲も大正時代のような感じもする。とは言え、江戸からの伝統とか、ヨーロッパかぶれの時代感でもなく、情報が込み合って何でもありで豊かだが、歴史への想いが無くなり、なんでもすぐ忘れられる平成時代でもない、狭間の日本人の素直な心情が表れているように思う。

歌を紹介したところで、何かになるわけではないが、同じような感覚を共有できれば、時代記録に踏み込みやすいのではないかと思うようになったのが、歌が時代を決め、そこに自分が在った歌曲を探し始めた理由である。もちろん、歌だけとは限らない。映画や書物だっていいのだけれど。

 

【後日補記】またこの歌を聴いていて、ふと妹のことを思い出した。何故だろう?  もしかすると画像に出てきた倍賞千恵子の表情が、一瞬、似ているように見えたからかも。それに、レコードやドーナツ盤で簡単に昔の歌謡曲を聞けるようになってから、ある日、適当に架けていたら、普段は無口の父親が「懐かしいな」といったのを思い出したことも関係するか。当時は家族一緒体という感覚があったようでもあり、妹を想えば、父親を想うということが重なってくる。

妹、内田志津江は2011年(平成23年)8月に69才で亡くなった。当時、自分は70才。

嫁いだということもあり、妹には必要以上の関心は無かった。普通では考えられないかもしれないが、芸術家気どりのメンタルでは有りうることだ、と勝手に思いたい。それに当時、自分の身辺活動だけで勢力一杯だった。特にミラノに10年近くも行っていたことも、縁の少なかったことに関わるだろう。

それがこうなったのは、この曲を聴いていて、一瞬、妹の寂しい心情にぴったり出会ったような気がしたからだろうか。もしかして僕を呼んだのか。

妹は長い間、難病に侵され、寝たり起きたりの生活をしてきた。亡くなる1年ほど前に三浦岬の病院を見舞ったのが最後だった。

死の間際に、「お兄ちゃんに会いたい」と言ったそうだ。

そうだ、俺は妹の兄だったのだ。それなのに何もしてあげられなかった。亡くなって9年も経ってこんなことを思い出している。(5月29日)