マッキャイオーリ展によせて

【情報・論】



マッキャイオーリ展


東京都庭園美術館で行なわれているこの展覧会は印象に残る。(14日まで)


なぜなら、僕が中学時代辿り着いた絵の境地にぴったりだったから。
どこがといえば、絵は光だと自覚し出してはいたが、それはピサロシスレー、モネ、デュフィマチスらに触発された結果だった。それが日本の絵には少ないと。
その源流というか、傍流というか、そういう流れの中に、このマッキャイオーリの画家たちがいた。
だから少なからぬ絵が妙に懐かしかった。


どういうわけか、マッキャイオーリ(後で説明するが、人名ではなくグループ名)の連中は日本ではまったく知られていなかった。
在日イタリア文化会館イタリア大使館あたりが力を入れて日本での紹介にこぎつけたということだ。
これはつまりイタリアの印象派のさきがけ展。日本人が知っている印象派はフランスのものだ。


実際にイタリアは光に溢れているというほどのことはないと、行ってみた太平洋岸に住む日本人なら感じ、それほどとは思わない。パリも含めて北の方の住人にとってこそ、イタリアでのめくるめく太陽の光を感じとって来たのだろう。
それでも白壁に当たる西日をみていると、これはやはり日本にはないという気持ちにはなる。彼らはこの光を捉えていた。


結果的に絵画運動となったこの起りは、1856年、フィレンツェのカフェ・ミケランジェロに集まった画家たちの間からだったようだ。
それが、喰えなくなったか、何らかの事情で、カステッリオンチェッロという田舎海岸の村に館を建てた篤志家の招きで移っていき、そこを画業の聖地とした。この篤志家はディエゴ・マルテッリと言い、美術評論家であり資産家で彼らの支援者だった。
カステッリオンチェッロは、フィレンツェを外海の方に出たところにあるリヴォルノという街の南、約10キロぐらいの所にある。ここは当時は、海岸と水平線、砂丘、低い丘陵、灌木の林しかないような芦の原のような所と見えた。
しかし貧しい画家たちはここで、光を見つけ、自然主義的なアプローチで独特な絵画を生みだしていったのだった。


「かれらは明と暗を強く対比させたり、色の斑点(イタリア語で「マッキア」。印をつける、などの意味もある。英語の「マーク」のラテン語系語源であろう=ここからグループの名前が出ている)を使ったりしながら大胆に光を捉えようとした」(括弧内を除き、同展カタログの主催者あいさつから)


後は展覧会を見てもらうしかないが、意図的に横から太陽光線が当たったような人物、動物、樹木、建物が成功した場合、独特の印象となっている。しかし、その真面目な画風は、崩れた印象派(モネなど)より何十年かは早かった分だけ「硬さ」となっているように見えた。