やっぱりそうか、田中一村

【情報】


奄美に果てた男の心象

――やっぱりそうか、田中一村――



どんなにか、人知れず苦しんだことだろう。30歳から50才までの20年間。……最近10年くらいで急激に知名度を得た、生前ほとんど無名だったこの日本画家は、千葉市近郊に住んで悩んで描いていた。
夕陽も朝焼けも美しいが、日々の移り変わりはじれったい存在だったことだろう。自分は何をやっているのか。
充分な才能。だけど画壇で認められない。あれかこれか、と定まらない画法を模索して描きまくる。


才能ある画家、といわず歴史に残るような芸術家の宿命は、おのが能力を全開放出しないで死ねない、ということだ。これが絶望的な苦しみとなる。
食えなければ死んでしまう。死んだら元も子もない。でも浮世の生活はあまりに面倒だ。食うために稼いでいる間に制作したい。まず貯めて、などと小器用なことが出来るやつは、もう本物ではない。死期はどんどん近づいている。
それなのに、おのが作品傾向の完成はいつになることやら。


一村は、日本画の平面空間性と、墨絵のもつ色彩の抑制に捉われていた節がある。また平面空間の構成技法にはいくらか弱みがあったと感じられる。それを本人は知っていたのだろうか、ほとんどの作品が画面一杯に描き散らすか、画面の真ん中に置いてしまうやりかただ。それゆえにか、画面周辺への気配りはすごい。
また自然観察にも長じていたが、特に、鳥、魚といった小動物や植物への愛情と観察力は並大抵ではない。


千葉時代に、すでに「忍冬に尾長鳥」(昭和30年頃と推定。46歳位か)などで、画風の先は見えていたのに、場所を変えなければ確立できなかったということか。もっと遡れば、19回青龍社展で入選した「白い花」(昭和22年。38歳頃)にだってもう、おのが才能の向ける方向は出ていたのに、それでもあれかこれかと描きまくる。努力型自己発見タイプ。いわば、この世界での秀才ではない。言いかえれば、頭で考えて描いてはいない。描いてみないと、自分のものかどうかわからない。一方で器用がアダになっている。


奄美大島行きは、九州旅行、一回の実地訪問をへて、やっと定住した。
ゴーギャンのことは知っていたはずだから、彼我を比べて悩みは一層現実的になっただろう。
今、残されたわれわれが見ると、やはり総決算となった「不喰芋と蘇鉄」「アダンの海辺」(*)などをみると、やはりこれは奄美に行かなければ描けなかった…と合点する……奄美潮騒、熱風、塩の匂いがする。
画家にとって、環境、とりわけ風景が見せる環境って何だろう?
セザンヌのサン・ヴィクトワール山、
モネのあの池のある庭、
佐伯祐三のパリ、
ダリのポルト・リガト、
で、ゴーギャンタヒチ
心に抱く風景に一層の触発を与える眼前の世界がある、ということだ。
でも、そことの出会いに、すべてを投げうつかたちで、そこに心中しにゆく心象はやはりただ事ではない……秀才なら、やらなかっただろう。


(今週一杯まで、千葉市美術館にて:スケッチ、使用品まで並べての全体俯瞰は初めて)
●(*)制作は1969〜75(昭和44〜50):61〜67才当りと思われる。
1908生〜77(明治41〜昭和52)享年69才。カタログは売り切れており、正確なデータはつかめていない)