深い共感の大沢昌助と父三之助展

【日記】


知らなかった、建築家・画家の家系―大沢家の肖像


突然ですが、中村橋という駅を知っていますか?
もちろん、東京23区内です。

…大学時代に上石神井学生寮に住んでいたものの、通学に国鉄(当時)中央線荻窪駅から石神井公園行き西武バスというルートを取っていたため、判っているとばかり電車に飛び乗って大きく間違えた。
高田馬場から西部新宿線に乗ったがそんな駅がない。あわててよく電車地図を見ると、中村橋は西部池袋線だった。
見ると新宿線中井駅から都営大江戸線池袋線練馬駅に通じているらしい。あわてて中井で降りたら、なんと町中を100m歩かされた。
今度は大丈夫と、練馬で来た電車に飛び乗ったら、また、なんと豊島園行きで行き戻り。
この憤懣が次の言い分になる。



練馬区立美術館は初めて行ったが、いい雰囲気である。
この年まで、恥ずかしいが行ったこともなく存在すら意識に無かった。
「中村橋/練馬区立美術館」は、ルート案内も含め、もっとセットで売り込む必要がある。「中村橋と言ったら練美」とか(その逆も有り)。そしてあらゆる機会に、所在地を交通地図と一緒にアピールする。
というのは、駅を降りて直ぐだし、改札から50mくらいをもう少し環境整備すれば、一体感も増せると思うから。それに、以下に述べるように、こんなにいい展覧会をやっているのに、実にもったいないという気持ちからだ。
自分のことはさておいて、逆に、練馬区は怠慢なのではないかと勝手に思ってしまう。



【論・情報】

真のエピキュリアン(人生を愛し真に生を楽しむ人のこと)なのか?


ところで場所の案内が目的ではない。
同美術館で開催していた「大沢昌助と父三之助展」の印象が書きたいのだ。


結論から言うと、どうしてこういう人たちを知らないで来たんだろう?という気持ちだ。大沢家の人々と練馬区立美術館関恵者を中心に、この企画を実現できたことを感謝したい。
特に三之助は本当に絵心があって建築家にもなった、「芸術家としての建築家」の先達だった。東京美術学校(現東京芸術大学)の図案科、建築家の創設にも関わっているようだということも知らなかった。


話しをすこし現実に戻すと、この展覧会のことを教えてくれたのは大沢悟郎さんだった。大沢昌助の息子だろうか、今度会ったら聞かなければ。
悟郎さんとは、本ブログでも時々紹介している「JIA港地域会」の常連で懇意になった。
大沢悟郎さん自身が本当に育ちの良い人で、恵まれた環境を思い出させる。父親と祖父を思い出すのに十分である。


大沢三之助は東京帝国大学工科大学造家学科で辰野金吾に学び、「西洋建築を学習するとともに日本の建築的伝統を理解する必要」を唱えた辰野の教えに従って古社寺の調査や実測を多く行なったようだ。実作もある。教育者としても語られていて、「東京美術学校では長く教鞭をとり、図案科に取りこまれていた建築教育を建築家として独立させ、最初の主任教授に就任した」。
三之助は「建築家のなかでも本当に芸術的な人物」であった。(以上、及び以下の括弧内は、カタログ紹介記事より)


そこで沢山の設計図・模写図を見た中で感激したのは、その、さっと描いたと思われる水彩画の素晴らしさだった。そこには明治の人間の自然への愛着がにじみ出ていた。
「…10を越えるスケッチブックには、各地の古寺社の実測図よりもその周りで見つけた名もなき風景や草花を丹念に描いたものが多い」


一方、これもさすがに父親ゆずりだと思わせるのが、三之助の二男昌助の水彩画だ。特に19歳の時に描いた、花を描いたものや盆の上の陶器の水差し一個のような静物画が素晴らしい。彼はすでに7歳のころに、絵画のなんであるかを知っていた。それは小学校時代の図案図工作品を見れば明らかである。
さらに興味深いのが晩年になってパウル・クレーなどに影響されたかと思われるような抽象画に転向してきたことだ。展覧会の作品をよく観察すると、50歳を過ぎてからの絵がずっと抜けていて、突然、75歳位になってクレー化している。多分、この間の絵画作品は売却されたりして所蔵が無いのだと思われる。


そしてもっと面白いのが、「紙映画」と称するオリジナルカートゥーン(漫画)である。映画を創りたいと思ったことだろう。18歳(1922)のころである。これはとてもよく判る。これには三兄弟の協力もあり、長男健吉、三男三郎の作品もある。
多分悟郎氏だろうが、立て掛けた黒い台紙に空けたスリットを通してロール状の紙を引き、一駒一駒、隣でお兄さんらしい人が、画面の話を朗読してゆく。美術館ではこのシーンを映像化して流していたため、30分以上これに見入ってしまった。
もちろんストーリーは幼いものだが、1922年と言えば大正11年である。このころの芸術家の夢が実感されて胸が詰まる。
その他、本の表紙や字体に心血を注いでいるのがわかる。これらは後のグラフィック・デザインであり、昌助はその先達でもあったのだ。


どう言ったらいいのだろう。
三之助といい、昌助といい、実に絵心を活かす人生を生きたように思われる。
そこにはいろいろの苦悩もあっただろうが、西洋絵画の洗礼を受けて伝統も何も解体してしまった明治期にあって、模索しながらもパリやローマに心酔し、日本の未来を夢みて生きた先人の姿があった。社会の構造も複雑ではなかった。それは今から見れば、真のエピキュリアン人生のようにも見えるのだ。


(思い出す事があれば、また後で書きます)