シャヴァンヌから現代デザイン問題へ

【論】 2015/02/21 修正


客体性の上に成り立つ近現代デザイン概念に対して、個人の内面性や創意を再び問題視する、新しい創造概念の模索
―> 「デザインを二元化せよ」へ続く  2014/12/12参照



前の日(2月22日)に続き、さらにシャヴァンヌを深読みしたい。
何をそんなにと思われるかもしれないが、現在の自分の思考回路にくっつけてみたいのだ。
それは、人間が何のために生きているのか、という次元でのクリエイティブ問題に逢着しないだろうか。
その背景には、日本が今、世界に先駆けて生産と消費だけの経済社会を超える視野と行動を求められていることがある。


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昨夜のEテレ。深夜に向かう時間帯で、ソチ冬季オリンピックの閉会式があるというので、ちょっと見てやろうとスイッチ・オン。
そうしたら伊藤穣(マサチューセッツ工科大学MITメディアラボ所長)の「スーパー・プレゼンテーション」の終了真近かだった。何とかいう教授の絶妙な語り口での「自分から話すな。人の話を聞け」だったと思う講義の後、これを受けて伊藤はデザインについて極め付きのことを言った。
意約すると、
「デザインというと色や形と思う人が多いが、今や技術開発優先より、ユーザーや市場の求める商品を、分野を超えて参加し、協力することによって生み出すことを言うようになっている」と。
これって、僕らが前から言って来たことだし、すでにスティーブ・ジョブスが決定的なものにしたデザインの論理になっている。

伊藤は更に英語の言い方で、それをまとめた。これも感じたように意訳すると、

USER CENTRIC DESIGN (使用者、生活者が中心になり求められるデザイン)
PARTICIPATION DESIGN (それらの人と、企業人、地域が参加してこそ出来るデザイン)
CO-DESIGN (組織間の事業協力などか)


このことには異存がない。では僕は何を言おうとしているのか。とんでもないものを引き合いに出すことになるが、考えていたシャヴァンヌから演繹してみたくなったのだ。
伊藤所長のことを引き合いに出すなら、シャヴァンヌなんかでなく、モダン・アートだろう。事実、彼がMIT助教にした日系美女のスプツニ子なんかはリケジョなのに、モダン・アートをやっている(本年1/4 朝日新聞be面)。一見、かっこいいが、ゴミや「無意味の集積」のような現代アートは、考え方はいいが、僕の求める仕事(感性として)の方向ではない。まだシャヴァンヌの方がいい。何だろう、何かある、と教えてくれる。
外国人のメンタルということで、日本人の精神に直訳出来ないかも知れないが、どういうわけか、そこには黒田清輝までが影響を受けた歴史がある。


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1860年代、19世紀の後半の始まりは、美術の世界にあってはドラクロアの死(1863)、アングルの他界(1867)によって、「世紀前半の美術を豊かにした二つの絵画潮流である、ロマン主義新古典主義の代表作家がフランスから姿を消した」ことで明確になった(鍵括弧つきの部分は、意味解釈の引用も含め、後述資料の引用)。それはイギリス(ターナー、ブレイク)でも、ドイツ(フリードリッヒ)、スペイン(ゴヤ)でも同じで、彼らはすでに去っていた。これらは総称して、この19世紀前半の時代の流れを「アカデミズム」ということになる1870年にはナポレオン三世も失脚し、第二帝政文化政策もついに終っている。
1860年にシャヴァンヌは36才になっていた。大いなる活動の時期であった。



少し周辺事情を見渡す。建築・デザイン系で言えば、さかのぼって1851年には水晶宮が完成し、ロンドン万国博覧会が開かれ、英国では既に産業機械時代の最盛期を告げていた。この年、ウィリアム・モリスが17才。ガウディは翌年の1852年に、ミュシャ1860年に生まれる時代に繋がっていく。アメリカ大陸ではルイス・サリヴァンが1856年に、フランク・ロイド・ライトは1867年の生まれだったから、彼らが20才になった時には。近代は完成していたはずだ。通信、交通手段も急速に発達し始めたはずだ。明治維新の時(1968)でもある。

1860年代は次に興った運動の始まり期でもあり、絵画史上の大きな変換点だった。そこで生まれたのは、ミレーやクールベの「リアリズム絵画」、「デッサンよりも光に、人間よりも自然にこだわった『印象派』」、それに、「アカデミズムとの決別を前提としながら、冗長に陥る危険を冒しつつも『イデアの画家』たろうとすることで対抗した」―「象徴派」だった。

ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは、「レアリズムの『極端な制限』を意識し、その『狭い枠組みから脱することを熱烈に』望んで…孤独な道を歩み始め」ていた。そういえばミレーもクールベも、馬糞の臭いや波の音まで聴こえて来るような、対象への生真面目さが人の世の夢を打ち砕いてしまうと感じさせないわけではない。
形態や色調の獲得はさておき、考え方、感じ方については、いろいろ考えていたらしい。「芸術は形而上学の象徴であり、形而上学とは芸術についての考察である」(同時代のF・ラヴェソンの思想に対するベルグソンの判断)に、「反応していたにちがいない」と解説者は言っている。
さらに、「ロマン主義に反発し…無駄な語彙や無根拠な叙情性を嫌った」という。
また、「意図するところとは異なっていた象徴主義の怪異さを拒み、『素描と色彩の、ほとんど宗教美術のような制約』の中で、単純化されたフォルムと統一された色調の対話を紡ぎだしていく」のだった。
ところで解説者はコローについて触れていないが、その辺はどうだったのか。
コロー(1796-1875)が自分の画風を確立させたと思われる1860年代(65才頃)は前述した大変換期に入ってきていたが、シャヴァンヌは35才位だった。その頃のシャヴァンヌの絵に「裁かれるキリスト」があり、ここでは自分の画風が確立していない。その後急に作風が見えてくるのだが、コローの絵を見ていれば、もうこのように描く必要はないと思っただろう。コローは50年代にサロンの審査員を勤め名声を得始め、60年代には知らぬ者はいなかっただろう(代表作の「モルトフォンテーヌの想い出」は1864年、68才の時である)。


ここまで来るとシャヴァンヌが、いかに作家の世界(マーケット)を意識して、それらのどの流れにも組しないようにした上に、考え方については少しも宗教的でなく、この時代にどんどん大きくなって来たであろう科学的、合理的な思考方法による内面探査を受け入れようとしていたと感じられる。それは当時の文学界における「高踏派」の考えに近く、「ボードレールのように、ピュヴィスもまた明晰さと現れるものに対する明快な意識を求める」のだった。
ピュヴィスはこう言う。
「空や異国の地を描かないかわりに、私は人間の心の不滅を頼りに、自分の内面を見つめる…これが間違った道でないといいのだが」。


どんどんデザインから離れていく、というより全く関係の無いことを言っているように聞こえるだろうがそうではない。ともかくも直接、解説者の言葉とピュヴィスの言葉を聞こう。
「ピュヴィスは高踏派とともに哲学的ないし科学的考察を喚起し、永遠を志向する主題体系を共存しつつ、彼独特の明瞭なフォルムの表現スタイルを用いて、刹那的なものを不滅にしてみせたいという希望を抱く。そして彼の関心は、イデアをよりよく観客と共有するために、付随的で具体的なあらゆるものと無縁のイデアを提示することにある」。
「『あらゆる明晰なイデアのひとつひとつには、それを翻訳する一つの造形的思考が存在する。しかしほとんどの場合、我々が得るイデアは混乱し不鮮明なものだ。そこでまずそれを解きほぐして、我々の内なる視線によって純粋な状態で見ることが出来るようにすることが重要である。…それが自分の目で見えて完全に解き明かされるまで…じっくり時間をかけて練り上げる。それからそれを正確に翻訳できる光景を探し求める。』そのとき、『純粋で確かな、旋律のような線』を追求するピュヴィスにとって、『最終的な下絵は歌劇の台本であり、色彩は音楽である。』」(ピュヴィスの手紙から)


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僕らはシャヴァンヌのような作家を見ると、その表面的な「古臭さ」や「宗教性」などを感じて、時代性は意識するものの、それ以上の参考にはならないと思いがちだ。しかし、何をもってどのように表現するのか、表現に何を求めていたのかということと、時代背景の中でどういう回路の思考をしたのかということは十分、考察に値すると思われる。


クリエイターには、美と繋がった何らかの内面性があり、その表層化への過程はこれまで芸術家のみの仕事と思われてきた。
ここにおいて、上記の伊藤穣一の言うデザインとは決定的に違うものとなる。
伊藤の言うデザインとは、思考も行為も全く客体性の上に乗っている。そこには個人の内面の葛藤などという局面は、排除されていないにしても、全く意識されていない。したがって問題にもされていない。
ここでは、デザインと個人的なクリエーションは全く違う。
もし同じ舞台の上に乗っているなら、向かっている方向が全く逆だ。


それはそれで構わないのだが、果たしてここで言う「デザイン」だけで、社会の創造行為の新生面は生まれてくるのだろうか。それが商品化されなくても、創造する者のイメージ源として、あるいは「仮説」の提示として、この、シャヴァンヌが葛藤したような仕事は担保されていかねばならないのではないか。また、「創造の原点はやはり個にある」ということでも、無視できないだろう。

(「水辺のアルカディア―ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界」展覧会カタログ:「孤独のピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、決してひとりではない」ベルトラン・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ・太田聡 訳より)