巨匠時代の残滓に振り回される

【論】 (3/7まで追記)


経済活動という視点を組み込めなかった時代の姿



また丹下健三をやっている。しかも大メディアのNHKの放映だ(昨夜)。
そのこと自体は何も悪いことはなく、むしろ大歓迎である。建築設計が輝いていた時代であり、建築家の存在を社会的に高いものにしたからだ。そして今も、建築設計界が大きく見えるということであれば、有難いことである。
特に丹下は、戦後の日本を、文化の面で建築を通して国際レベルの評価を得る国に仕立てた功績は特筆に値する。また、建築そのものの、コルビジェ以来の美的解決について、実に適切、かつ時を得たプランニングやディテールの採用は称賛に値する。

しかし、僕に言わせれば、その影響の大きさを考えるについても、現時点を取り込んだメディアでの放映となればそれでは済まない。もちろん、それは丹下の責任ではない。
では、何が言いたいのか。問題は何か。



このことについては、あえてここで前触れに説明しておかなければならないかもしれない。
明治から150年余りを経て、我々はようやくこの期に至り、この間に日本人が何をしてきたのか、客観的に、かつ冷静に振り返ることができる時代に生きていることの自覚が重要だということである。モリスのことも、岡倉天心のことも、ホイッスラーのことも、そして今述べようとする丹下健三のことも、すべてこの視点からの発言である。




丹下を含め、村野藤吾前川國男、あるいは吉村順三あたりまでを巨匠とすれば、今は巨匠の時代ではなく、巨匠を称揚する際には同時に消化薬を添付、服用を求めなければ、建築教育上、若者が夢の落差の大きさを吸収出来なくなり、またメディアへの教宣上、巨匠称賛型建築家職能のいわば崩壊後の実態把握への努力が忘れられるからである。これは教育界、学会にも求められる姿勢である。
ポイントは現在の社会がそれほど、近過去でさえも、その「現在的」意味が伝えられないほど、その落差が大きくなっているということである。これほどの落差は近現代史のなかでも他にない大きさである。この際、丹下らがコルビジェらのヨーロッパ文化に育てられた設計環境に多くを学んだ歴史の経緯、それを僕は「輸入職業」と呼んだいきさつなどについては、ここでは省略する。

今の多くのマスメディアは、文化に関してはその落差の実態を認識しようとしないから、消化薬の準備なども思いつきもしない。したがって、知らないは知らないで許されることになるのだ。


槇文彦は丹下研究室出で、このためか、この番組にも出ているが、巨匠時代と「無力派」のちょうど中間である。磯崎新もそうだ。黒川紀章は逝去したことによって無理やり巨匠時代に送り込んでおくか。要するに、ここ10年あまりの劇的な社会変化を無視しては生きれない「生き残り組」になってしまった以上、槇や磯崎らは「無力派」の立場を受け入れざるを得なくなっている現状がある。


ではなぜ、巨匠時代が無くなったのか。それが落差の実態を示している。
これには複合したいくつもの理由があり、それぞれの根拠の解説だけでもかなりの紙数を要する。基本的には金融資本主義化した社会構造で、個人の能力を評価する経済システムが劣化したことだろうが、そこには安全と経済効率にしか目が行かなかった国や民間の、つまり日本人全体の創造性への低評価の社会問題がある。つまり経済効率を活かした組織競争しか存在できなくなった、そこにネット化による情報競争が加わり、急加速している。ピケティの言う資本収益率に経済成長率が勝てないという公式も加担していよう。
もう一つは建築家自身の問題であり、こういう時代変化なのに、設計環境のもとに何でもかんでも取り込んでまとめあげられるとする思い上がりとそこに至る芸術家的な独断から、職能評価をとんでもなく高いものにしてしまい、個別技術や民度の高等化、あるいは市場経済の発展についていけない現実をつくりあげてしまったからだ。そのことが、まったく反転させると巨匠時代が見えてくる。


ではなぜ巨匠時代が可能だったのか。それは以上のことから想定できることに加え、その時代が許したもの、個人個人の生成過程に関わることもあり、個人的に見ていくしかないが、そのことが現実報道問題の2つ目にもなる。

特に丹下健三はかなり特殊で、なぜ巨匠になったのかについては、彼自身の周辺に理解しておかなければならない問題がある。


それは東大助教授から始まってその地位を活用し、優秀な学生たちを研修と称して(本人が言ったというのではなく、助手らも自ら進んで設計現場を学ぶ機会と理解し、公的にもこの論理が通用したとして)、不眠不休で実作に加担させ、また精力的な協力も得て、おのがアイデアのグレードアップに活用できたことだけでも、当時の意味する、個人の創造する「現実の設計行為」への背反に近くなる。つまり「丹下の作品」となっているが、実は膨大な共同協力同作業による成果であるはずであり、多くの協力者たちのアイデアと努力が組み込まれている。ただ確かにこの時代、高度成長期の日本では、一般に個人が育っていず、己(おのれ)を捨て経済成長に組み込まれるのがむしろ当然の時代背景もあった。
もちろんそれを判別、選択したのが丹下だから、丹下の作品だとする主張も理解できる。
ただ、ここからが時代の落差を認識する視野からの論点になるが、そこに加えられた協力者たちの必死の努力は、日本人だからこそ、全体協力という美名のもとに問われていないが、この経済化社会から逆算すれば、いくらの経費と人材、そしてアイデアが問わず語りに投入されているかを思い至ることが重要だ。言い換えれば、それを表に出すことを軽視したために、現在の建築家の窮状もあるとさえ言えるのではないか。本当に、この国において、「巨匠」でなく「独立建築家」の定立を願うなら、丹下は全協力者の名前を挙げて顕彰する必要があったのではないだろうか。
放映画面の中で槇は、遠巻きにこれに関わることに触れている。ヨーロッパの設計界ではマスター・アーキテクトがいて、すべての協力者はいわばその下請けである。マスターの言うことを聞き、すべてそれに合わせなければならない。ところが丹下研では、皆がアイデアを出して提案できた、と(主意に沿ってのまとめ)。
また別な論点からだが、僕自身、「東大教授という肩書で、公共建築の設計が出来たのはなぜか」と、かって医学界の重鎮から問われたことがあり、正確には答えられないこともあった。

建築家を公共の場において、誰にでも与えられる客観的で公平な職能条件に置けなかった(設計方法としてでなく、経済行為の対外評価として。この設計方法は、社会環境の複雑多岐化した現在では、有効な方法として息づいている)ことを考えれば、現在の職能の混乱、あるいは崩壊の予兆が見えていたとさえ言えるのではないか。丹下はこのことを知っていて、晩年にはその自己の設計流儀は当然温存しておいたが、職能全体の社会的地位向上のために、建築家協会を数の力で押し切る勢力にしようと努めている。


これで判るように、現在では考えられないような、経済的には超非合理な、もしかしたら真逆の超合理的な組織で設計に対応出来た。ここに「巨匠時代」ならではの存在可能性の一例が見えている。(敬称略)



関係参考過去記(思い出すまま);
2013/07/30 「丹下健三が変えようとした東京」
2012/08/19 「設計施工の分離がもたらす問題」







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