―「明治維新」は失敗したのかWas Meiji Restoration failure?―

【論】

The Meiji Restoration(Meiji Ishin)taken on 1868 was failure ?
- Was it a war of terrorists who did't know the culture of "Bushidou (the rule of Japanese worrior for life and death until Edo period)" ?  Present social system of Japan is remaining something of that age, and forgot to support private ability in social life.


【最初に】
本記事は長いので敢えて分けると、4つのグレード(章)になりそうです。
①イントロ、
②ちょっと嵌ってみる、
③再考察を兼ねての復習、
④個人的な感想(4月1日追記)
というような内容です。
メモを確認するつもりでまとめていったのが③です。いわば自分の勉強です。
従って、「今さら復習なんて」と思う方は ③など読んで頂く必要はありません。
以上、ご案内です。




 


①イントロ

それは、日本人同士が血で血を洗う凄惨な殺し合いの時代だった――「明治維新」は、武士道を知らない反逆徒たちの謀反だったのか。あるいは幕藩体制護持のために、無意味な殺戮が強要されたのか。長州人のこの継続する過激性の本質は何だったのか 
                          

            
我々にとって、こういう話はもう「古い」のだろうか。
現在の激しい社会変化の中では、明治維新の話はあまり意味もないと思う人もいるかもしれない。事実、建築家とかデザイナーの間では、こういう歴史の深層に迫る話には一般に花が咲かない。というより日々の仕事に時間を取られ、あまりこの方面の専門家にはなれないというべきか。
明治維新がどんなものだったのか、はっきり自分の内で分析整理する間もなく、高校の授業が通りいっぺんだった記憶が僕にはある。頭が悪かったこともあるが、学んでいた時代は、現在から遡るのでなく縄文・弥生から入った事もあり、江戸時代になるかならぬ内に受験勉強に突入し「選択科目」となり、世界史を取ったためもありそうだ。教師も面白くなかった気がする。もっとも、敗戦後の自国史を語りたがらなかったとか、あえて無視したというような事情もあったのかもしれない。
自分史でもその後、特殊ケースだろうが美術大学、過酷なサラリーマンを経て、30代の10年あまり日本に居ず、人の国の文化に飲み込まれてきたこともある。このために江戸末から現在までの日本史の深層が抜けていた。今頃になって、やっと日本通史への歴史認識に目をやる心理的余裕が出てきたという気がしている。
このところ、岡倉天心やホイッスラーの影響などを記してきたのは、その辺の穴埋め心理でもありそうだ。


最近知人の紹介で、この時代に肉薄する論著をひもとき始め、「明治維新」とは後からつけられた美称であり、維新そのものは失敗したのだと主張する考えに出会った。そんなことも明確には認識していなかった自分がいる事も判った。「維新」は、時代状況把握に関して複雑微妙な事件が多数からまり、徐々に価値変換し複合化した変革であった。簡単に理解できるような事ではないはずだ。この際、本書を通してちょっと整理してみたくなった。




②ちょっと嵌ってみる

多くの日本人が「明治維新」を、「いい事をしてくれた、歴史の分岐点」と理解してきた事は事実であろう。それが教育の結果であれ、現在の事実認識からの思いであれ。確かにあの時代の変革がなければ、今の日本がどうなっていたか判らない。でも、本書の著者は、幕府の高官たちはそれだけに外国との交渉に長けてきていたのだから、スイスのような永世中立国になれたのではないか、としている。確かに、何かつじつまが合わない気持ちもあり、歴史に「もしも」はないが、一度時間があれば、この時代を正確に把握したいと思っていた。

例えば天心が、文部官僚としての成果を挙げながら、評価の根拠の多くが外国歴(「茶の本」はボストンで発行されたとか)や、茨城県五浦での耐乏生活をすることになった点などが、国内で「干されていた」からではないか、という気がしてならなかったからだ。禁断の恋愛など天心自身にも破天荒な所があり、社会的に揶揄される下地もあったのだろうが、どうも釈然としない。(本ブログ2015/01/19「岡倉天心の現代的意味(その3)」参照)
だが図らずも、本書でこんな下りに出合った。
「奈良・興福寺の仏像修復に精魂を傾けたのは誰か。彼の努力がなかったら、今日私たちは興福寺で仏像を鑑賞することができないのである。それは、文部官僚岡倉天心である。彼が、長州人を中心とした西欧絶対主義者たちによって職を追われたことと、それにも拘らずその後も彼が地道に仏像修復に当たらなかったら、今日の興福寺さえ存在していなかったことを、私たちは肌身に刷り込んでおくべきであろう」


これは原田伊織著の「明治維新という過ち」(毎日ワンズ・改訂増補版)である。まさに聞きたかった一言である。このことからも本書を通読する事が出来、一通りの考え方をまとめる事が出来た。
本書の力点は書名の通り、明治維新への一般の理解は間違っている。あれは長州暴徒のテロであり、明治後の立憲政府は暴徒たちの創った変質国家であるというもの。
その他の関係書もあるが、ひとまず原田理論からの読み込みをお伝えする。通史的はすでに良く知っている方も多いであろうが、自己流解釈の復習と思って頂きたい。特に、維新前夜については、時間経過的な後追い整理をしないと実感として理解しにくいので細かくなった。改めて自分でも、今頃?、と思うが、仕方がない。面白いこともあって、このまとめにだいぶ時間を掛けることになってしまった。読み間違いもあるかもしれない。主な役者は皇室(孝明天皇)、朝廷(公家たち)、将軍(徳川慶喜)、倒幕藩徒(主に長州、後から薩摩など)、徳川家親藩と佐幕藩士(主に会津)である。





③再考察を兼ねての復習

1・関ヶ原の戦い以降、幕府により領土も縮小され、外様(とざま)として疎んじられた長州藩などは反徳川を根に持ってきた。
2・外国船の来航や密貿易の過程から、幕府は列強諸国との和親条約、通商条約を締結するが、開国か攘夷(外国人・船を打ち払い入国させない事)の議論が高まり、特に長州は「尊王攘夷」(尊王=皇室を尊び、天皇を国政の中心とする)を三戸学から増殖させて行動のルールにまでし、京や江戸に出て、意図的に幕政の不安を煽った。
この時期に「安政の大獄」があり(安政五年1858〜六年59)、大老井伊直弼は、自身が勝手に行った勅許のない(つまり天皇の裁可のない)日米友好通商条約の締結や徳川家茂の継嗣決定に反対する、下級武士に留まらず大名、公家までも弾圧した。その人数100名ほどにもなり、吉田松陰もこれにより斬殺された。この時代までの幕府の沙汰の厳しさは十分、知っておく必要がある。
幕府の要請に親藩会津藩は断りきれず京の警備を受け持った。これが結果的に薩長と敵対することになる。松陰の門下生がうごめきはじめたのもこのころから。(今年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」がこの辺りに係わっている)。
3・長州は「久坂玄瑞が先頭となって『攘夷決行の期限』を決めるよう、関白を脅し」、これが将軍後見職徳川慶喜に伝わり、結局、慶喜はこれを受け入れ、決行日を文久三年1863五月十日と決めてしまった。
長州の暴走に危機感を募らせた会津藩やこの時点での薩摩藩が、孝明天皇に上奏し追討の下命を得、八月に兵を動かし長州兵を排除、長州に動かされていた三条実美ら公家たちや長州藩毛利敬親・定広父子の処罰を決めた(同年の「八月十八日の政変」)。「長州は、完璧に『朝敵』となって西国に落ちて行った」。
4・長州の反逆性は只者ではない。復讐に燃えた長州藩士たちが再度京に入り策謀し、「御所に放火、天皇を拉致、会津・桑名各藩主を殺害」という陰惨な計画を練っていた。
このことで長州過激派の、「尊王」と持ち上げながら御所を焼き討ち、天皇を拉致などと考える事自体が、口先だけで唱え、実は自分たちのために「天皇という存在を利用しようとしていた事は明白である」。
これで判るように、「もはや長州藩内でも統制がとれていないのである」(実際、「高杉晋作は薩摩の島津久光を暗殺すると公言して京へ出てしまい、結局、同藩は高杉を捕縛し、野山獄へつないだ」)。
この辺になると、長州藩士と自称する先鋭たちが、自己目的とオーバーラップした「この国を変えたい」という願望実現のために、今流に言えばテロ化し先端暴徒化していたのは明らかである。
会津藩預かりの新撰組がこの策謀を察知、最初は近藤勇ら単独組織4人で会合場所を襲った(「池田屋騒動」。途中から土方歳三らが駆けつけた)。長州サイドは松蔭直系など約10人が惨殺され、5人ほどが捕縛された。これで終らず、翌朝の市街掃討戦が苛烈で、会津彦根、桑名合わせて11名が即死。長州派は約20名が捕縛された。
5・錚々たるメンバーを失い衝撃を受けた長州の過激派はさらに激高して再度京に上り、明確な敵となった会津藩を討つべく御所の蛤門周辺で戦闘になった(「蛤御門の変」元治元年7月1864・「池田屋騒動」の二ヵ月後)。ここで御門内部に入り、御所に発砲、砲撃をしたために別名「禁門の変」とも呼ばれるが、「我が国の歴史上、御所が本格的に攻撃された唯一の事例」だそうだ。しかし総崩れとなり久坂玄瑞も自刃。
6・これに罰を与える名目での勅許による幕府の指示で、「長州征討」が二度に渡って行われたが成功とは言えなかったようだ。要するに、この頃、幕政の行く末に付いての限界が見え、歴史の変換点へのよどみに入ったようだ。「維新」成立と言われる4年前だ。
最初の征討は、現体制への恭順のための会議や勅許の授受、そこに生ずる京や大阪・江戸との報告・了解・再指示、長州藩領である周防国長門国への幕軍兵士の駆り集めや移動、裏取引や外国公館の関与にもよる判断の引き延ばしなどで時が過ぎ、元治元年から慶應元年まで。逃げ延びた高杉晋作も暗躍している。主な公議の場は広島だったようだ。
二回目の征討(慶應元年1865から三年1867・1月の解兵令まで)はこの年に幕府軍の艦隊が周防大島へ砲撃したことから始まり、紀州藩などが幕軍として戦ったが、芸州や佐賀藩は幕府の命にも拘らず出兵を拒んだという。一進一退を繰り返したようだが、結局、締まらない停戦合意、つまり幕府軍の実質支配権の低下を見せつけただけに終ったようだ。
頼まれたとは言え知らない土地への出兵、「開国」も「攘夷」も本当はどちらが正しのか真意が読み切れない。しかも同じ日本人だ。これでは戦意を失うだろう。逆に長州藩士にしてみれば自分の土地に血を流しにきた蛮族のようにも見えたかもしれない。地元の方が必死だっただろう。それに、この地方の藩士の方が、外国船の入港、兵器の売買や密輸入経験を通して、幕府やそれに近い藩の民より「外国というもの」をより肌で感じていた可能性もある。聞く所によると、この頃に、藩の集まりでなく「日本国」という考え方が確立されたというが頷ける。藩士の東西移動が激しくなり、木版印刷(瓦版)などによる情報も増え、外国の蒸気船を見てしまえば、もう何を信じていいか判らなくなるだろう。実感しにくい遠方からの幕府命令と言ったって、現実には長州が必ずしも悪いとは思えなくなるという状況も読めてきそうだ。大体「尊王攘夷」自体が、こういう現実感を持つと抽象的過ぎるという感覚になったとしてもおかしくない。図版などによると、もう幕府軍は洋装の軍服を着て鉄砲を担いで進軍している。急激に西洋文化的になってきたようだ。なお、この辺りの解説は本書にはない。
7・慶應三年1867に土佐藩徳川慶喜大政奉還の建白書を提出。慶喜は40藩を集めて形式的に諮問、これを天皇となった明治天皇に上奏、翌日には「大政奉還勅許」の「沙汰書」を授けられて大政奉還が成立したが、これは慶喜があっさり受け入れたのではなく、苦慮の上で裏をかこうとしたのだという。
公家にも倒幕派岩倉具視や薩摩の大久保利道らの少数派)と佐幕派(主導権を握る二条家賀陽宮家などの上級公家で多数派)がいて、この幕府転覆のために岩倉たちがしたことは14才の天皇明治天皇)を利用して(偽天皇となった岩倉が嘘をついて)偽の「勅許」を出し、慶喜にではなく広沢真臣長州藩士)と大久保利道(薩摩藩士)に下されたのだ。
慶喜側はこれを「密勅が下る」と解釈、天皇から自分を指し置いて下命されたのでは名誉も何もないと考えたどころではなく、「大政奉還を行っても所詮朝廷に政権運営能力はない…実権は依然として徳川が握ることになる」と考え、「先手を打って『大政奉還』に出た…これによって『倒幕』の大義名分を消滅させた」のである。
実際、この判断は間違ってなく、外国との必死の交渉は優秀な幕臣が行っていたことの証であり、「薩長はそういう幕府の足を引っぱるだけだった」。
8・形勢不利を悟った岩倉や大久保は新たな戦略を画策。岩倉が自邸に協力五藩を集め「王政復古」の断行を宣言、翌日(慶應三年1867・12月9日)、朝議を終えた上級公家たちが「御所を退出したのを見計らって、9箇所の御門を閉鎖…明治天皇を臨席させ『王政復古の大号令』を発した」。これは、「幼い天皇を人質にした軍事クーデターであった」と原田氏は言う。「大号令の内容は、上級公家の排除と一部公家と薩長主導の新政権樹立の宣言に過ぎない。ただ、これによって…慶喜が企図していた…広議政体ともいえる『徳川主体の新政府』の芽は完全に抹殺された」。しかしこの倒幕クーデターは後に「戊辰戦争」が起るように、成功したとは言えないのだ。
9・ということはこの直後の、新体制会議(三職会議・別名「小御前会議」)が岩倉(繰り返すが、薩長の頭に立つ倒幕派)と山口容堂(土佐藩主・尊王佐幕派)との対立で大揉めになったからだ。「岩倉具視孝明天皇を毒殺した」という噂も広く流布され、山口は「徳川慶喜の出席を拒んだ会議」を責め、この事態を「幼い天皇を担いだ、権力を私(わたくし)しようとする陰謀である」と非難した。正論だが岩倉は譲らず、休憩になった。
10・ここからが追いつめられた薩長岩倉具視の本性を現していて凄い。下級公家だった岩倉は「もともと過激」(更に、「この時期の大久保は異常に過激」)だった。この経過を、陪席を許された薩摩藩岩下佐次右衛門が、外で警備に当たっていた西郷隆盛に伝えると、西郷は「短刀一本あれば片が付く」と言う。この一言が岩倉の耳に入り、それを含めて広島藩浅野茂勲に口伝えする。岩倉の決意を知った広島藩は辻将曹が土佐藩後藤象二郎に漏らす。こうして対立藩を跨いで山口容堂に伝わった。身の危険を感じた山口の限界がここにあった。「徳川慶喜に辞官納地を求める」決定に全員合意してしまったのだ。


「昭和の極右勢力にまでつながる問答無用の事の進め方を、岩倉は己の決心として直接山口に伝えるのでなく、広島藩を通じて容堂を脅かす。…この後、我が国の『近代化』と言われている時代では、政局が行き詰まる度に反対派に対して『問答無用!』という暴力=暗殺が繰り返され、最終的に長州・薩摩政権は対米英戦争へと突入していったのである」。


11・ところが慶喜が自らの新しい呼称を「上様」とすることを宣言し、大政を奉還はしたが、呼称上の問題はなく、「言外に徳川政権の実質統治を継続」することとした。
薩長の、強硬手段に訴え御所を「占領」し、我が物顔に振る舞う行動に対して、土佐藩を中心とする佐幕派系の反発もピークに達し詰め寄った。これにより岩倉と薩長は、「慶喜が辞官納地に応じれば、議定に任命し前内大臣としての待遇を保障する」とせざるを得なかった。ここで慶喜はさらに反転攻勢に転じ、「12月16日、大阪城に米・英・仏・蘭・露・伊の公使集め、内政不干渉と徳川幕府の外交権保持を承認させ…二日後、朝廷に対して、『王政復古の大号令の撤回』を要求した」。これに対して朝廷は遂に、取り消しを言明はしていないが、幕藩体制の維持を認めたのだ。


「ここに岩倉・薩長の偽勅許による倒幕、軍事クーデターによるそのオーソライズの策謀は敗北した。『明治維新』は失敗に終ったのである」
ここまでが「明治維新」なら、史実は明らかに失敗に終ったと言えよう。


12・ここまでで判るが、現在でも官邸でのやりとりや閣議が外部から判りにくいように、いくら体制が元通りになったとは言え、外部、つまり京の市中や全国に繰り広げられた疑心と殺戮の混乱は、説明がつけられるようなものでは無くなっていて、もはや収束しようもないところにまで広がっていたに違いない。
これに乗じたのが西郷隆盛である。岩倉の了承を得て、「赤報隊」を組織し、今度は江戸において「旗本・御家人を中心とする幕臣佐幕派諸藩を挑発」したのだ。実際には、「毎夜のように…無頼の徒が徒党を組んで江戸の商家へ押し入り」、放火・略奪・強姦・強殺を繰り返し、「夜の江戸市中からは人が消えた」という。
13・赤報隊の仕業とされる、江戸市中庄内藩屯所への銃撃、江戸城二の丸での放火を経て、ついに庄内藩も幕府も切れてしまった。老中稲葉正邦は数藩からなる幕府軍を編成、薩摩藩邸を包囲し下手人の身柄引き渡しを求めたが拒否され、屋敷を砲撃し焼き討ちにした。
これを待っていましたとばかりに喜んだのが西郷だという。「自分が送り込んだ部隊の、無差別テロという挑発に、幕府が乗ったのである」。これが京都における「鳥羽伏見の戦い」のきっかけであり、「戊辰戦争」のきっかけでもあったのだ。
14・ここからは徳川慶喜が図に乗りすぎたという話も出てくる。その程度では収まらない幕臣立ちの「討薩」、さらには長州討ちへの圧力に対し、慶喜はこれを受け下手人を引き渡さなければ薩摩を討つと宣言してしまったのである。
数藩から成る幕府軍一万五千が大阪城を発進し、薩摩軍がこれを急襲し「鳥羽伏見の戦い」が勃発。「長州・薩摩は一気に戊辰戦争という、待ちに待った倒幕の戦乱に突入する」のである。
特に長州藩の組織した軍勢が、ならず者が多く武家の精神も判らないような部隊で、のちに会津藩の悲劇を生んだというが、それだけに血の気の多い狂気の集団であったことが、勝ちに乗じた原点であり、これに新式の鉄砲の輸入などに目がなかった事が加わる。
「この頃、各地で一揆が頻発しており、総称して『世直し一揆』と呼ばれる。そういう情勢下にあって赤報隊の掲げる『年貢半減』は大いに受け、長州・薩摩軍の東進を大いに助けたのである」。しかし、両藩は直ぐこれを取り消し、赤報隊を「偽官軍」だとして追討し主要な者は処刑された。「要は維新に失敗しつつあった岩倉・薩長に利用され使い捨てにされた」のだ。西郷も最初から使い捨ての心算だったという。
以上が後に「明治維新」となるなら、「西郷が送り込んだ赤報隊が、その一番の功労者と言うことになる」。


この後、実際に会津藩の悲劇が起る。それは生真面目な会津人に対する、無頼の集団に近かった長州勢の切り込みであった。さらにその後、佐幕派が最後に函館五稜郭まで逃げて戦いが終った事は周知のことである。その長州人が、勝ったとたんに「攘夷」を転換し、開国主義者になってしまったのだ。
明治維新とは、下層階級の者が成し遂げた革命であると、美しく語られてきた。表面は確かにその通りであるが、下級の士分の者であったからこそ、下劣な手段に抵抗を感じなかったといるのではないか」とは、考えさせられる主張である。





④個人的な感想

倒幕の成功に乗じて、新政府なるものを創ったが、その構成員のほとんどが、その勝ち組のメンバーであったのだろう。新政府が、新しい「日本国」という国体を代表するものになったのに、公平な人材評価とそこからの登用でなく、勝ち組だけで政体の主要ポストを埋めてしまうというのは問題でなかったはずがない。しかし、おびえて外国人を討てと言いつつも、その実、その実力に憧れ、旧態をさらす幕府では勝てないとの思いから倒幕に走り、これを序々に勢力化していった「死を賭けた成果」を内在化している以上、勝者として既得権を振りかざさないはずはない。反体制の確立は必ずその思いが深いだけ、偏向したものになるのは仕方のないことなのだろう。
明治維新」が失敗だったか成功だったかというより、彼ら勝ち組の体得した「好戦好洋思想」―軍事を主力とし、産業、技術、文化はヨーロッパの真似をすればいいという考え方のこと(「和魂洋才」は、その「和魂」が大和心の精神を指すとしても行動の具体的指針となる動機を示したことにならず、「洋才」も「マネ技術の習得」を指しているだけととれる。むしろ「洋才」が「和魂」を呑み込み、「好戦好洋」になってしまったとも言えるだろう)―その思想傾向から、もともと独立自尊精神の不在だった町人や農家の自発的な創意工夫による社会構成という芽を潰し、そこから上意下達型のその後の日本の命運が決まり、その残滓が今日の我が国の、特に政治国体面に続いて現れているのは確かであり、それをこそ問題とすべきだろう。