こういう建築家はもう出てこない?

内在性から住宅を考える人材時代の終焉かー渡辺武信さんのこと
●印句:補足追記(05/09)



こんなことを書ける立場にあるのか、という気もするが…
渡辺武信さんの語ることを聞く会があった。
彼のことは知っていて初対面ではないにしても、これまで直接に話を聞くことはなかった。
知っているとは書いたが、彼の仕事や著書を、見て、読み込み、研究したというわけでもない。いわば門外の人間だ。だから本来なら何も語る資格はないのだろう。
それでも昨夜、風邪気味をおして出かけたのは、まず一度は体から発する生の実像を知っておきたかったからだった。
それはどういうわけなんだろう。実は、僕が探し求めているか、検討対象にしたい建築家像があって、その一人が彼なのではないかとの思いがあるからだ。その核には他人事でないおのが建築家への想いがあり、IT化社会への激変で切り替わった建築家像の認識以前にある、自立する強固な精神構造を引き継ぐ糸口があるのではないかとの思いもあるからである。しかし著書から入るのは苦手で、まず体感温度を知り、それから考えようというわけだった。
設計業務はやっていたものの、在伊10年近くで帰国して建築を自立業務とし、その前は建築学科の出でもない僕は、建築設計業務は後発組だった。ずっと自分でもやれると思い横目で眺めてきた先達組への眼には、渡辺さんは最初から本格的にどっぷり浸かってきた本チャン組であり、その分当時、国を相手に戦うような自意識が生きていた世界の住人であるように写っていた。
しかし、彼のように自分の仕事に深い自負があれば、一介の後追い同業者などに簡単な語り口で自分の業績をどうこうされたくない、という思いもあるに違いない。取り上げる方も、その意味では深い悩みの中にある。


それはともかくとして、正確に把握しているわけではないが彼のことを知らない人のために予備的に書いておくと、1938年生まれ、東大の建築科を出て(吉武泰水研究室に長く在籍していたようだ)、どこの設計事務所に属することもなく独立。住宅を専門に現在に至っているようだ。大学時代から詩の研究会などにも関わっていたらしい。
安易だがウイキペディアによると、20冊ほどの著書があり(翻訳を除く)、気ままに仕分けさせてもらうと、「詩」に関してが7冊ほど、「映画」が5冊、「建築、住まい関係」が5冊、「思想系」が2冊、「料理」が1冊という具合になる。
これで彼が何が言いたいのかの大まかな分野と方向性が判ってくる。これだけ書いているのを見ても、全部を読み終えないと何も言えない気がしてくる(特に映画論が気になる)が、それでは前述の通り、ここで終わりになる。
こうなると、せっかく話を聞いたのだから、書くなら自分の想いをないまぜにして、受けた印象を書き留めておくのも許される、として記述しておくしかないという気になっている。紹介を兼ねた勝手なイントロということか。だから自分が出過ぎるかもしれないが。世代的にも近いことを理由に、それをお許し願いたい。
あまりにもいろいろの事があるので、気の付いた大まかな項目立てで触れてみよう。 再三でしつこいが、これは僕が持つグリッドを通したものである。 映画や他の話にまでは広がらなかった。


1.言葉を信じる者に、信じない者 (より正確には、信じようとしてもなかなか本気になれない者)が何が言えるか。心性を形成した時代背景についての想いがよぎる。
渡辺武信さんの話を聞いていると、変な言い方だが「言葉」が伝わってくる。一句、一句、自分と言葉との確認から発言していると感じされるのは「詩」への思いからも当然だろう。
ご自分が選んだであろう詩をいくつかプリントして渡され、それを部分的に読み上げる形で解説もされたが、詩の専門家ではない者にはいい加減なことは言えないが、とても難しい。そこには2つの問題がある。
一つは、言葉を信ずればこそ詩に許される、言葉の扱いとその価値認識である。
朝の食卓に整列する食器みたいに
世界はそんなに確かではない
で始まる詩のイントロを見ても、日常性の不安定さをこのような詩句で言われると、もう黙り込むしかない。
2つ目は、その内容が政治、経済、文化、時代認識と、複雑多様であり、特に彼の精神形成が、真っ盛りにあった1960年代の安保闘争時代であるとなると、その破天荒な激動期を胃の中に収められないと、もうその実態精神を理解出来るような状況ではなくなるだろう、ということだ。
そのことは、「宇宙の星の数を見ていると、背中が寒くなる」と言い、寒くしないのが住宅であり、上手い住宅設計を見れば「背中が寒くなくなる。それで本当に上手いと思ったのが宮脇檀だ」という話の始めにも表れていた。 詩の方では、18才の時に知った8才年上の大岡信にも影響を受けたと言う。


2・「住まう」ことは言葉で言い表せるが、教えられない
そのことが、建築設計、特に住宅設計を言葉で言い表すことに意味を見出していくことになる。「宇宙はノン・メゾン」と言った哲学者に啓発され、「家は宇宙に対極する武器だ」との確証を深めたが、これは感性的な自己認識なので教えられない、と理解したようだ。
「暮らしの構成は孤独を含んでいる。だから人は救われようとする」とも。
ここには造形表現のためには、簡単には言葉を信じられないで来た僕のような人間には思いもつかない表現がある。


3・反権力へのこころざしと「私性」への自覚
60年安保闘争吉本隆明全学連に加担したあと、共産党丸山真男がこの闘争を利用したことについて、「擬制の終焉」という著書で反抗したことに共鳴し、「現実社会を知っている労働者こそがめざめたのであり、『私性』を知っている者こそが戦える」と考えたと言う。吉本が官僚化した労働組合共産党への反発を強めたことに共感したようだ。政治体制に対する表現者のびりつくような身構えへの意識が受け止められねばならないとの要求が感じられる。ここに「私性(わたくし性)」という概念が生まれている。そこから「私性」の3原理、つまり「雨風という自然への対峙」「外部と内部:監視される社会も意識した個人の社会環境への関わり方」「宇宙に対峙する人間」という分類が出来た。社会については「正しいということは息苦しい」という感じ方も生んでいる。
「『私』を守るために家は求められている。家そのものが等身大の信仰対象である」
この辺りが渡辺さんの真骨頂なのかも。「神道八百万の神はいいが、その他の人間より大きい神様は厭だ」とも。
またユングが好きで、(多分)「私」的な意識の型を「現型」「原型」「元型」の3つに分解して考えているとも語った。ユングとなるとこちらは更に不勉強でフォローできなかったが、「個人の意識」(=私)を階層別けするユングの基本形を日本型に再分類したもののことを言ったのだろうか。
ここで「暮らしのコウテイ」とも言われたが、当面、「行程」か「肯定」か「工程」か、用語が判らない。また「私性」への自覚が住まいへの考え方に関わることは判るが、監視や反権力までとなると、僕がちょっと後の時代の人間だからか、繋げにくくなる。でもそれが「黙っていては何も変わらないよ」という発想に繋がるのなら実に有意義な指摘である。


4・吉武泰水研究室で教わったことや父親の影響など
吉武建築計画学教授は「プランさえ自分の考えに添っていてくれればいい、という鷹揚さがあった」という。それだけにプラン力には自信がうまれたとのこと。
そういう中に「納戸は使うかどうかは分からないが捨てられない(つまり、合理性だけではない)」というような具体的な考え方も生まれたようだ。
下諏訪の渡辺組に養子となった父親は優秀で、コロンビア大学へ1年行って、そこで強めた英語力で、戦後はアメリカ商品の輸入で財を成したというが、彼への影響については聞いたはずだが失念した。


5・椰子の実のように固い覚悟と、そこに繋がる建築家像
何度か出てきた言いぶりに、「いろいろの事をやってきた器用な人間」とは思われたくない、ということがあった。また「アイデンティティ」という用語を使い始めた一人のようだが、「自己同一性」と字引にはあるが、そんなことではあるまい。ぴったりした日本語が無いのがいかにも日本人を表している。自己意識の弱さの表れだ」と。
「私性」ともつながるが、彼の自分の言葉に封じ込めた思いには動かしがたい理念的覚悟がある、と読める。たとえそれが僕にはちょっと古いかなと思えても。
徒党を組まず、まず自分が一つ一つ丁寧に問題に立ち向かう立場に立つ。だから建築家協会の職能問題には敢えて無関心とのこと。今に残る、言ってみれば最後かもしれない「アトリエ派建築家」の一人としての自尊心は強固だ。都市景観(タウン・スケープ)については1/2000図面でなく1/10図面を描くのだとし、「アトリエ派が都市インフラを扱うのは難しい」とも。一方で、職能としての価値を確保していく意味でも設計料への読みと対応はただモノではない。業務報酬への掛け率の高さは宮脇檀事務所に次いで3番目だったとか。それなら、法に触れるようなやりかたでなく、報酬論から協会をサポートする(結果的に徒党を組む)という発想は生まれなかったのだろうか。


6・東大と藝大
どうも気になっていたことの一つの伏線が、東大の文脈と藝大のそれとの違いではないかという気がしないでもない。事実、何度も宮脇檀(藝大卒、後から東大大学院に行っている)のことが出たし、その後の益子義弘さん(母校出で藝大教授となった)の評価もちらりと。話には出なかったが吉村順三(藝大教授)などの周辺事情も関わりがありそう。渡辺さんも絵が好きだったとのことだが、東大の構造には言語論理は正当に受け取られても、視覚表現による「思考」についての評価軸は無かったのかもしれない。これを言うについては、自分の一方的な大学経験も含まれている。
●気になるので補足追記すると、当然「そんな別け方は意味がない。それでは前川、丹下から磯崎などに至る東大系譜の説明がつかない」という意見もあることは承知の上。個人には天才的に両面を知っている者もいるが、ここでは教育現場の取り上げ方を言っている。文系・理系だけに留まらず、文系にも言語系と視覚系とでもいうような能力適性の区分が可能であり、これが入試と教育伝統の中で強化されていくと読める。これに意識的に順応したり(あるいは何も意識せず追従したり)、逆らったり、乗り越えたりして建築家精神が形成されていったと考えている。



渡辺武信さんのような強固な自覚を持った個人としての建築家は、もう出てこない可能性がある。あまりにも周辺状況が変わった。しかしそれだからこそ、利権と組織化の深まる現在の産業構造にも耐え、説得力を持つ人材が、彼の思いも受け継いで集まることが求められていると考えている。そこにはやはり、数字やデータや画像ではない言葉の深みが関わっていそうだ。
最後に前出の詩の続きを、もう数行付け加えてみる。


けれど、どんな無名戦士も
一つの戦争の構造の中で死ぬように
きみの沈黙も
ひとつの頽廃(たいはい)の中でしか生きられない
・・・・・・・・・・




(補記)記載事項に誤りがあれば、後から修正します。
当日の司会者(郡山さんと言ったと思う)とサブ司会役(片倉さんか)の方々は良かった。多分、渡辺さんの考え方を追ってきた人たちなのだろう。
(日本建築家協会支部住宅部会事業4月21日)






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