溶けゆく境界と「よそ者」

新年の抱負        ●18:00 追記


今年は自分に何か起こる。そう期待している。
特段、今何か準備しているという訳ではないが、大げさな言い方だが、一つの体勢と言うべきか、社会の大きな変化も読み込めたような気がしていて、行動の指針が立て易くなったように思うのと、向こうから何か来た時の選択肢がはっきりしそうな気がしてきたのだ。


このような思いで見ていると、「溶け行く境界/もう戻れない」(日経新聞元旦トップ記事)というキャッチ・フレーズはなかなかうまい。
内容はビット・コインなどに関わる国境、規制、企業格差に関わる問題が引き起こす未来への指摘だが、このような境界の崩壊は、個人の経済活動への新しい路を拓くものだろう。●例えば、ネットでよその国の公的個人認証機能を表したICチップ入りカードを獲得して、電子居住者(いわば国民)になり、その国で事業を始められるというものだ。
「溶けていく境界」は職能領域についても言える。大量生産、大量消費型の経済社会に合った職能分類は、ここにきて大きく転換し始めている。ネットによる社会の情報価値化は、モノより情報へ、「いいね」という個人的な感性価値に評価の軸を移してきた。これまでのような製造業、建設業、サービス業、農業などという分類だけでは通じなくなる。我々の狭い領分であった「建築家」「工業デザイナー」なども、感性価値(アートも組み込んで)を巻き込んで再構成される時が来た。このことは昨年の出版、「クリエイティブ[アーツ]コア」で開陳したところだ。


話は飛ぶが、「よそ者」という感覚が自分に当てはまるという実感を教えてくれる対話があった。
「昔から僕は日本の世間とはズレているように感じますし、今でもそれは変わりません。それがないとものを書こうとは思わないでしょう。だって書く必要がないんだから」という養老孟司氏の発言に導いたのは、「私たちは二人とも『よそ者』です」と言った塩野七生さんだ。(週刊新潮1月4/11日号)
二人に自分をすり合わせる気で言っているのではないが、この二人が以前から、自分の「この国での行き詰まり感」に近い処の共有があるなと思ってきたのは事実だ。
「よそ者」意識を捨てる必要はないんだ。その一言が頑張る勇気を与えてくれた。
ちなみに、お二人とも80才だそうだ。





改めて、本ブログを開いて頂いてる方々へ、謹賀新年を申し上げます。





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