人生のある節目に立会った

ほっと一段落


午後3時半。やっと昼飯にありついて、近所のファミレスに。
こんな時間だからだろうか。隣で、2、3才の子をバギーで寝かせ、自分はコーヒーで本を読んでいる若い母親が。 亡くなった妹の若い頃に似ている。
子供が目覚め泣き出したら立ち上がり、バギーを揺する。また子供は深い眠りに。


今日で懸案の家内の実家の売却を終えた。
我々はどうあがいても時間をコントロール出来ない。この想いはどこから来るか。

このブログの昨年11月26日に書いた「襲われる無常感」 の日辺りが、片付け手伝いの始めの方だった。
あの日の思い出がずっと尾を引いてきた。 自分のことでもないのに、なぜ時間を取られることに手を出すのか。そこには時間、歴史、創造の原点になるような問題が隠されているような気がする。
自分の実家をかたづけるのはこれからだが、家内の実家に行く度に、深い想いに囚われる。 新しい経験である。


写真好きだった岳父夫妻の膨大な記録写真があるのだが、その人生の後半には、時々旅行や食事、イベントなどで一緒になっているので、我々家族も写っている時がある。これだけでも拾い出そうとしながら、結局、義理の親の人生模様に触れてしまう。


例えば家内は笑い出すが、義母は若い頃、美女でファッション・センスがいいことがわかった。かなり生活に疲れ 投げやりになった頃(?)にでも縁戚になったからだろうか、あるいはこちらが若くて思いあがっていて、気がつかなかったのだろうか。亡くなって3年近く経つ今頃になって、家内の母親に恋心?
少し訳がある。何度か出かけて写っている夫妻の海外旅行に、イタリアを含めたヨーロッパのあちこちがあり、足跡的にかなり重なるのだ。しかも亭主が妻を撮るので大体1人だ。夫は妻の美しさを背景の中で自慢したかったのかも。
ヴェニスサンマルコ広場で、あるいは街中の石橋から逆光に映える運河を背景に。フィレンツエのポンテ・ヴェッキオの上で。もちろん、ミラノのドゥオモ広場やガレリアでの写真も。ノートルダム寺院の前やセーヌの岸辺で、ノイス・ヴァン・シュタイン城の一隅で、インターラーケンやザルツブルグで山々を背景に、ウィーンのまちなかやシェーンブルン宮殿の庭園で、ポーズを取って撮った写真が自分が孤独で訪ねた場所と重なるのだ。


こんなことがあると写真への思いが深くなり、捨てられなくなる。
だけど、過去の記憶、しかも自分のことでは無い記憶をどうやって保存するのか。その意味はあるのか。この自分だってそのうちに居なくなる。


それでも時間を取ってまで写真をめくったり、小物を片付けたりするのは、少々、ほかの訳もある。
岳父は次女の婿養子に家督を継がせた。継ぐ子が決まれば、それで安心と思ったのは僕の親と同じかも知れない。
彼らの時代、モノは貴重品で集めれば集めるほど生活の安心が確保されると考えていたようだ。だから、想い出を籠めて立派な写真アルバムを作る。関心ある分野の書籍は読まなくても集めて、人が見てその人の知財力を判断すると考える。衣類や布団、更には食器などはいざという時に役立つから、スペースがあれば、いくらストックしておいてもいい。家具も面白ければ買うが、インテリアに合わないと、棄てないで倉庫行きとなった気配が強い。特に義母は、来訪する客たちの接待に合わせた食器や数が必要と思ったのか、いろいろと買い集めていた。
それだけではない。趣味のコレクション(例えばカメラやCD)を陳列ケースに並べる。教材書を買って勉強し、骨董品や工芸品を買い集める、といった具合。まさにモノ溢れとなる。


処が、養子の時代になると一変する。モノは不要に近くなるのだ。しかも一緒に住まなかった。この辺の事情は敢えて説明しなくても、大方の納得は得られるだろう。電子情報化とモノは捨てる時代になってしまったのだ。
で、どうなるかというと、養子君は、もう要らないと、ほとんど興味を示さないという状態になる。家内は長女だが大倉姓となった以上、養子が面倒見るべきだと放棄する。例えば、岳父の父親の日記などが出てきたら、あなたならどうする?
そこには養子ならではの問題もあるだろう。かくして、岳父が保存してきた先代からの50冊を越える写真集は破棄された。
そこに、間に立たされてしまった自分がいることが判る。捨てられない一方、捨てなければ保存する場所もない。家に持ち帰れば家内が怒る、ということになる。どうしょうかと悩むうちに時間を取られてしまうことになった。


これは多くの同世代の者には共感を得られるだろう。そんなに簡単に片付けられはしない最後の世代かも。
今日やっと、自分のものではないのに残された家財に見切りをつけられた。ほっと一段落で、乾杯だ。
でも残すことにしたモノの整理は残っている。





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