個人の責任でモノを言わない国民性

下らないことの現実から。


茶店でトイレの出を待っていたら、実に15分待っても出てこない。
考え事があったのと時間があったので、諦めて待っていたが、何度、ドアを叩こうと思ったか。店の人に言おうとも思ったが、しなかった。
出てきたのは若い男で下を向いて「すみません」でもなかった。一瞬、「何とか言えよ」と言いかけたが出なかった。


隣が二つ空いていた山手線の優待席に若い女性二人がスマホを覗き合いながらおしゃべりをしつつ座ってきた。で、満席。次の駅で、重そうに荷物を持った老人が乗ってきてチロチロとこの二人を見ていたが、何も言わなかった。当方も高齢者だし疲れているので立つ気はない。何度か、この二人に注意しようとしたが、しなかった。結局自分が降りる一駅前で、反対の席が空いたので老人は座れたが、実に嫌な気持ちがした。


僕らは、ここぞという時に、言わず態度を表さない習慣を身に着けている。それが礼節を守っているという気持ちもある。でもこの習慣は、どこかで大きな間違いをすることになるのかも知れない。
トイレで言えば、ちょっと長く自分が出てきた時に、共用だったので中国人の若い女性に文句を言われたことがある。何を言われたのかはわからないが、明らかに苦情だった。
ミラノに住んでいた時、喫茶店で向かいの椅子が空いていたので、靴のまま脚を投げ出して載せていら、近くの老人が来て怒られたことがある。
同じく、アパートのカーテンを勝手なものにしたら、管理人に呼びつけられたことも。


こんな下らないことで話題にするのも恥ずかしいが、この年になると、言うべき時に言わない日本人というのが、何か恐ろしい決論になることがあるという実感があるのだ。それがほんのちょっとした日常の積み上げのようにも感じてくるのだ。
姉歯事件」の時に、建築家のほとんどは黙りこくった。
自分の問題ではないとか、建築家団体が何か言ってくれるだろうとか。
しかし結果的に、国の「待っていました」とばかりの建築確認事務を建築許可審査に切り替えるタイミングを正当化することに「協力する」ことになってしまった、と言えるのでは。「確認」はそれまでの建築家が努力して担保してきた秘蔵の手法だったとは、最近確認したことだ。
(後述の可能性あり)






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