何もせずに時間だけ過ぎていく

本当に人生が、日々、無意味に過ぎている、という実感がした。

何もクリエイトしていない。というより、自分史を越える表現が出来ていない、ということか。

これは、人生の無意味を実感しているということか。

間違っていてもいいのだから、行動を興すべきだ。もうその時期に、とっくに入っている、という意識も追い詰めてくる。

今朝の起き抜け時のベッドの中で、あれをやっても意味が無い。これをやっても意味が無い。と半分、夢想状態で考えていた。その一方で、「こうして、やらないことが習慣化してしまう」という恐怖感も並行して生まれている。

つまらないことには足を取られている。

過日の千葉の大停電に見るように、自宅の車庫用斜路が最近の強烈な暴風雨で、停電のためポンプが止まり、水浸しになるのでは、との恐怖感から関係工務店に連絡したり、家内の病院通いに付き添っていったり、ついでに昼飯、夜の買い物にも付き合わされる。帰ってきてメールチェックや返信、フェイスブック投稿などを見ている。新聞や家内が買ってくる週刊誌、あるいは、毎月のように送られてくる他人の会社の機関紙などめくっていると、面白い記事があったりして、つい読んでしまう。同じようなことが起こり、仕事の片付けも進まない。気が付くと日が沈んでいる。呼ばれて夕食の卓に着くと、ついテレビを見てしまう、という状態。でも21世紀は映像の時代でもある。馬鹿にしようとしてきた、とも言えるテレビでも、教わることが多くなっているのは事実だ。

このまま更に高齢化して、階段を上がれなくなったり、家賃の節約のために息子夫婦と同居するようなことになるなら、二世帯住居を考えておけばよかったということにもなる。それには自宅を売るしかない。自分の設計した家だ。出来るのか? まだ、遅いとは思わないが、決断の難しい問題だ・・・というように。