地中海世界のバランス感覚

前もって一言:この「ダイアリー」は「ブログ」とセットになっているようです。つまりブログが2つあるのです。で、時々、両方に書いています。

ベース変換を求められた後、この事を会社に問うたのですが返事が貰えず、そのままになっています。過日、外からアクセスしたら、「ダイアリー」は出ましたが、「ブログ」が出ませんでした。できれば一本にまとめたいのですが、当面、「ブログ」も書いていますので、そちらの検索もお願いいたします。

 

 

 

 

 

「イタリアン・セオリー」という言葉の魅力に振り回された1年だった。

このタイトルは岡田温司京大教授の著書から来ていて、神田順先生(東大元教授・建築構造)が取り上げてから気になって仕方がなく、この2月に討論会をした訳だが、まだくすぶり続けている。

そういう処に面白い記事に出会った。

「私が地中海世界に魅了されたのも、あのバランス感覚。アリストテレスは、論理学をつくった人ですが、同時に、『論理的に正しいことは、人間世界では正しいとは限らない』とも言っている」(塩野七生、「日本人よ、『健康神話』を棄てよ」文芸春秋2020/1月号、新見正則オクスフォード大医学博士との対談)

日本人の「健康神話馬鹿」から話が進んでいるが、ここに語られている「常識」が日本では常識ではない。このことは僕が「イタリアン・セオリー」から引き出したい何かに繋がっていると思っているのだが、このことは今度の神田先生とのAFフォーラムで具体的な問題になるだろう。

 

論理的に正しいかどうかを問う以前に、日本では数値主義が跋扈している。

 なぜ成績点数の一点差だけで非資格者になるのか。あるいは合格者人数を一人越えただけで無資格者になるのか。

あらゆる入試や資格試験にある、この疑問には長年悩んできた。

この問題は、数値優先、データ優先、それらを元にした法規優先社会のあらゆる面に波及する。結果的に、それを盾にしてきた組織、それを創ってきた官僚、それを認めている国民性までもが巻き込まれてくる。こうなれば日本人の問題だ。

このことは同じ文芸春秋号で藤原正彦が書いている「『英語教育』が国を滅ぼす」にも通じている。

「劣った環境の下で勉学しながら(200満点中)192点をとる者は、優れた環境の下で勉学し200点をとる者より、潜在能力は上とみなすのである。日本ではあり得ない話だ。これがケンブリッジの公平なのである。

ケンブリッジ大学と日本の国立大学との公平は相当に異なると言ってよい。…日本の入試における公平は『一切の主観を混入させない』であり、ケンブリッジのそれは、『主観を入れることでより妥当な評価をする』である」

「そもそもこの世界には、自由も平等も公平も存在しない。すべて(注:大倉追加:ある時代の)欧米の作ったフィクションなのである」

個人の才能や能力がこれらによって規定され、折角の人生が限定されてしまう。見方によっては実に恐ろしいことが「公然と」行われているのだ。

現代の我々日本人に求められているのは、ある種の「地中海世界のバランス感覚」のはずなのである。