残された時間は少ない

妙に、時間に生きている自分を感じるこの頃だ。

コロナ・ウイルスゥのせいで、生活習慣が変わったことが大きい。

このところ、寝るのが夜中の2時~3時ということもあり、起きるのが9時から10時。

ポストに来た新聞や書類はまず、アルコールタオルで拭き、数時間、ベランダに干す。こんなことの繰り返しが、どんどん時間を取っているようだ。ゆっくり朝食を取り、ベッド・メイク。それに関連するテレビ情報があるとつい、見てしまう。マスク付きの散歩に行き、洗濯物干しなどを手伝う。気が付くと、もう5時だ。

その結果、こんなことをやっていて時間がとられていいのか、との自責の念に取られる。というのも、この時代を生きているということは凄いことで、自分のやったことを、歴史の流れに合わせて検証し始めてみると、何か大変なことを言い残しそうになっている、という気になるからだ。たとえ、それが誇大妄想でも、もう構わない。

最近のテレビでの堅気の討論には、経済学者、歴史学者、医師、介護関係者、或いは政治家(知事や行政担当者も)、メディア・コメンテーターなどが圧倒的に多く、たまに文化系が出てくると、芸能界、演劇界、映画界、音楽界、或いはスポーツ界といった分野でしかない。

水野誠一さんがFBで、ある学術者たちの場に呼ばれて、文化の大切さを言ったら、「そんなことより、明日の命、職が失われることが問題だ」と蹴られたと掲載。まさしく、このような状況にあって、いらつく自分と重なる。

しかし、経済のグローバリゼーションへの反省から、自国の産業、文化、個人の生活への再視点化は待った無しのはずだし、それを「ソーシャル・ディスタンス」という言葉などで言い現わそうとしているのは明らかだ。

この辺の視点から、数年前から始めていた「個人記録」を見直しており、歴史の大きな転換期における個人史という観点での編集を進めている。そうしてみると、デザイン団体の理事長などとして、過って思いのまま語って来たことなどにも、歴史の流れに繋がってくることもあり、私的でありながら、これが歴史に存在してこなかった、とも言えそうな未踏破の分野ということになれば、これはやらなければならないことが多いと思わずにはいられない。それが、時間がないのに雑務に追われて時間が過ぎていくとの想いになっている、と感じている理由である。