駄弁は止めよう。下手な文章は書かない方がいい。
そう思っても、つい書いてしまうことがある。本来なら言葉にならないことをぐちゃぐちゃ考えているわけだが、ある出会いがあると、「ここだ。俺の気持ちを伝えるのは!」などと思ってしまうのだ。
その例が、「どうする『新型コロナ後』の文化振興策―『イベント助成を考え直し、税金投入すべき芸術とは何か問うべきだ―」(日経新聞5/3:瀬崎久見子記者)を読んでからだ。
書きだすと、つい夢中になる。言いたいことがほとばしってくるからだが、結論を言うと、それは自分都合で、実は誰に言っているのか、何が言いたいのか、一般の人には良く判らない文章になっているからだ、という。
「という」と言ったのは、自分では気が付かないそのことが判るのが、悲しいことに家内に見せて「どうだ、これで送ろうと思う」と言った時に、同じような言葉が返ってくるからだ。
家内いわく、「この記者のことを調べたの? 相手にされないかもしれないわよ」と。
事実、ネットで検索したら少ししか出てこず、それもどうやら演劇、ミュージカル、コンサートなどの評論が主な仕事のようだった。
やはり違いそうだ。文化、芸術でも、デザイン、建築、都市景観等だったら、どこの誰に言えばいいのだ?
文化庁? 宮田さん? 彼なら知っているが、知りすぎている面もある。それでも原稿を協会理事たちに見せて、合意があれば送ろうか。