やっと実感したこと「日本人のルーツ」

一昨日だか、話のながれで衝動的に「私は日本人が嫌い」と家内が。

「つい、この間まで『天皇陛下、万歳』と言っていた国民よ。北朝鮮の民と大して変わらないじゃない」と。もっともだ。

この話は、コロナ禍が収まらず、インド型という、より強力な変種が増え始めている中で、聞き覚えでは、参加選手で7万ぐらいか、報道関係や付き添い、国の関係者などだけで15万人とかが外国から来るという、オリンピック・パラリンピック開催の政府の対応が問題になっていることから始まっている。

家内は、感染拡大を危惧し、オリパラはやるべきでないと明確に意識している。

確かに、大きな視点で決断できず、ずぶずぶと戦争に駆り立てられた日本人のだらしなさが、改めて問われているのが今なのだろう。

この話中で思い、実感したのが、最近、テレビなどでもよく取り上げられるようになった「徳川幕府は悪かったのか」という問いから来る日本人の意識構造の流れと、それによって過小評価されるようになった「文化の軽視」問題だ。

薩長明治維新を成功させたという、これまでの伝説と違い、徳川慶喜が勝利していたら、日本はもっと欧米から信頼され、経済的にも世界一になっていたかも知れない、というIFの話もそれなりに信憑性を感じた。

日本人は江戸文化を切り捨てた時、地域文化の独自性も失い、欧米文化を真似し始め、国民が天皇依存となり主体性を失い、精神的に放浪する民となった、という感覚が実感されたのだ。もちろん、江戸時代の硬直した身分制度がもたらしたしがらみという反面も承知の上である(例えば苅部直東大教授意見などを考慮:「たたき上げいのかすごいのか」20201017朝日新聞「耕論」)

今、150年を経て、改めて江戸文化で失ったものは何か、が問われている。