高校時代の同僚たちへ

最近、高校時代の同僚たちが、思い立って文集を発刊するとのこと。

表紙と記事を、との依頼があり、ともかくも自分の思いを文面して渡した。

まだ発刊されていないが、私的な事なので、その原稿を先回り公開してしまっても問題はないと思い紹介する。

実は、この前に紹介したオンライン・セミナー「イタリアとは、日本人、クリエイティブ〔アーツ〕コアとは」(日本建築家協会関東甲信越支部住宅部会)とほとんど同じ結論である。

今は、「樫の香」という表紙の絵を進めている。

 

 

神奈川県立小田原高校11期生論文集原稿20211209~1220

 

新しい文化育成を妨害する「深層底流」

明治維新で切り捨てた社会的な文化価値への無評価を問う―

                     大倉冨美雄(建築家・産業デザイナー)

 

外国生活が10年近くにもなると、日本と日本人への見方が大分定まってくる。今の話ではない。一九七〇年代である。当時のミラノでも日本人は少なからず居たが、多くは大手企業の出張社員か、個人芸術家(例えばオペラ歌手を目指していたような声楽家など)だった。意外だったのは出張社員が、日本人同士で固まり、大晦日の「紅白歌合戦」の録画を楽しみにしていることを知った時などだ。外国生活経験とは言っても、その国の核心に触れていこうなどという人材は、実は多くはなかったようだ。その世代が今、八〇才代になっている。

日本人には「忖度」という考えが強く、自分の感情、考えを抑えて、全体の流れに逆らわないようにするという気性がある。言葉では理解していても、その実態はなかなか自分のものになっていない。それが悪く出たのが、太平洋戦争への流れだろう。その「忖度」はどこから来たのか。それがますます気になりだしたのがニューヨーク、ミラノでの生活だった。

小田高11期生の僕は昭和16年1月19日の生れで、奇しくも太平洋戦争の開戦の年である。80年目(2021)の、今年の12月8日のテレビは開戦の意味を問う特別番組が目立った。確かに、大きな視点で決断できず、ずぶずぶと戦争に駆り立てられたあの時代の世界の読み方と対応が、政治家やメディアのみならず、当然その下にいた国民にも出来ず、ある意味でのだらしなさが改めて問われているのが今なのだろう。それにしては明治維新は結果的にだが凄いことだったが、これも極端に走ってのことだ。まだ、問い直しすることが多々あるのは思った以上で、いろいろ掘り下げが進んでいるようだ。国として戦火にまみれなかったこの七十年余りのおかげもあり、それなりに日本社会が成熟したような気分になり、一方、コロナ禍によるパンデミックが時代の転換を急進させているような空気にもなって、比較的に国民レベルで、ロング視野の近現代日本史を振り返るタイミングが増えていると思う。

これまでの人生からこの時期に実感したのが、テレビなどでもよく取り上げられるようになった、「明治維新とは何だったのか」という問いへの答えである。特に僕のように、出来上がった体制に逆らいながら振り回されてきた人間には、問題の深層が透けて見えてきたような印象が強い。薩長明治維新を成功させたという、これまでの伝説と違い、「徳川幕府は悪かったのか」という問いや、徳川慶喜が勝利していたら、日本はもっと欧米から評価される国になっていたかも知れない、というIFの話もそれなりに信憑性を感じた。日本人は江戸文化を切り捨てた時、地域文化の独自性も見失い、欧米文化を真似し始め、国民は天皇依存となり、ますます主体性を失い精神的に放浪する民となった。民主主義も国民が勝ち取ったものでなく貰ったものだ、という感覚が実感されたのだ。もちろん江戸時代の硬直した身分制度がもたらした、しがらみという反面も承知の上である。これらの反映は文化と言う形で表面化する。今、百五十年を経て、改めて江戸文化で失った精神性は何かが問われている、と感じている。

実感の内容をどう意識しているか、から先に言おう。この百五十年間、国力増強を柱に欧米の科学技術、経済体制、表面的に法体制を、それでも真剣に真似てきたが、それは江戸時代まで続いてきた良いものを見捨てないで組み込んでいくというものではなかった、との概要は言った。それを僕はこの国に潜む「深層底流」と言っている。それが今次大戦の反省と、今のAI時代化への波、更には行き詰った資本主義体制への問いかけで益々判りにくくなっている。これは「表層潮流」と言えるだろう。こういう流れの中に現在がある。

具体的にどういうことかを自分の職業観の例で言うと、ある法律(例えば「建築基準法」)は戦後作られたが、公布時の社会状況からの上乗せを続けて現在に至っている。法規は細部に渡り、普通の知識ではほとんど理解できない状態になり、それを受けて国交省や予備校が強みを発揮している。事業的にも職業的にも、法規解釈の専門家を必要とする事態である。その背景には安全・安心優先と言う玉条があり、それを御旗に感性的な要素は全部切っている。つまり、数値をベースとした許可と規制以外の何物でもない。それで何が悪い?と思われるようなら、それがすでに「深層底流」と「表層潮流」に毒されていると言いたいのだ。

言い方を変えると、経験を深めた真の「専門家」は、ある事象を個別に判断するのでなく、トータルに、しかも感性的価値(環境への適合性、居住性、審美性など)を含め、全体として考慮し判断するのだが、そういう価値判断は規制条件に合わない限り、絶対と言うほど許されていない。そこには、専門家と称される者にありがちな狭小さも問われてはいるが、これも近代化の弊害の表れである。ほとんどの規制が数値化による評価基準になっているので、例え一ミリでも規格を越えればアウトになるのは工業製品と同じだが、これが住環境にも応用されているのだ。もちろん数値化を悪いと言っている訳ではない。こういう背景には規制化により、民意を主体にするのでなく、結果的に官僚システムを保全する体制の維持に繋がるものがある。言い換えると、明治からの上意下達の官僚統制の流れがここにしっかりと維持されている。統合力のある専門家にしか深い問題の表出が出来ないのに、その専門家が何も言えない状況に追い込まれているのだ。

話が難しくなりすぎたようだ。これは東大合格でも、「百番までは良く、百一番は駄目」の意味は何かと同じ、と取ってみたらどうだろう。よく、日本はハードに満足しソフトの育成を怠ったと言われるが、この場合のソフトも、ハードを活かすためのソフトという認識が強く、ソフトの柱となるヒト(人)の内面問題という意識は高くないように思う。そもそもヒトをハードとしてみれば、生きる条件や思考能力などの設定は可能だろうが、ソフトと見た場合、ヒトである「資格」を決定できる条件などは簡単には設定できないのでは。資格を取れば、その人はその分野の適任と言うことになるのか。このことは我々が「資格」を意識するとき、多くの場合ハードとしての人間を設定していることを意味しているし、文化力への認識も評価もないからこそ、ということが判る。

一見、愚直な問題意識と見られる可能性があるが、ここに見えるのは「ある認識レベルでの文化性の無評価」という問題である。単純には文化的な評価(文化力)は数値で決められない場合が多いからだが、思い出してみよう、人生に決定的な影響を与えたあの高校時代を。上位大学への入学だけを最優先に考え、結果的に理知で繋がる思考回路だけで繋がる解答か、まったくの暗記による点数稼ぎばかりを考えては来なかったか。その結果、これらによって評価されるもの以外への価値認定は大きく無視されるか、趣味の問題とされてきた。このことは明治維新により、それまでの思考回路を封じ込め、上のめりに教え込まれた外付けの知識を優遇することに合致していた。官民が互いに協力して文化力を無視してきたのだ。それをもし禍根と言うなら、その証は日本の近代化にある。

僕がこの五、六十年余、戦ってきたのはこの問題で、日本の社会構造、産業構造の中ではほとんど真剣に取り上げられて来なかった。もちろん、知財権的な保護や、伝統工芸や芸能の保護、営業・売上戦略としての文化的価値評価(これがデザインと言われてきた)はあったが、それは表層であり、「深層底流」への理解ではなかった。こうして、例えば今の日本の街並みが、どこも同じで美しくもなく、魅力のないものになった実情の背景を知ることになるのである。

これほどこのことは、文化的な事象の表現者ならの場合、クリエイティブな「社会的に役立つと思う自分の才能」を生かすのが面倒なら、クラフト作家になるとか、漫画家になるとか、売れる絵でも描いている方がいいと思うのが現実だ、という考えと繋がっている。一方、やりたくてもすでに現代アートは解体していて、どうでも解釈出来、目立つことが売れることに繋がるなら、人目を驚かせることを考える方がいいという流れになっている。どの場合も社会性は無視しているし、資本主義体制に牛耳られている。結果としてそれは、美的価値の行き詰まりを現実社会の中で活かそうとした二十世紀初頭からの先進的芸術家の理念が、本質的には社会に受け入れられていないことを意味している。それを先進国の中で、いわば無意識に最強度に進めてきたのが日本である。その背後に明治維新で切り捨てた文化的価値への無反省がある、との結論である。今は何となくそのことに気づき始めた社会人もいて、それは「個人の多面的な才能を経営に反映させよう」というような言い方になっているが、日本の「深層底流」への理解にまで至っているのかどうかは疑わしい。

 

補記:余談だが、「でも、言うだけでなく何かやっているのか?」と問われればやっている。「クリエイティブ〔アーツ〕コア」という自著で、このことを視認化した(合同出版)。(公社)日本建築家協会(関東甲信越支部住宅部会)オンライン・セミナーで「イタリアとは…」を開催(youtubeで配信中)。理事長としてのNPO日本デザイン協会では、「デザイン」についての核となる指針をまとめつつある。また「建築基準法」の上を行く「建築基本法」(仮)の設立を求め、言い始めの神田順東大名誉教授の考えを応援し、一緒にセミナーなどを開いてきた。しかし言葉上での理解は別として、国会議員らの深層認識も低く、この先が見えていない。これはあと百年もかかる戦いなのか。

もう一つだけ補足。「美の基準」などを設けて「まちづくり条例」に反映したのが1990~2004まで真鶴町長で、同学年だった三木邦之君だ。彼の事業の成果は本テーマにも沿っていて、忘れてはならないことだ。そう言えば加藤市長時代に、僕も小田原市の街づくりについて進言、会議も開いて頂いている。市内の木造平屋自宅を改修して2階とし、ギャラリーを設けようとしたこともあった。