大きな変革の波よ、来い! 田根展追記

●「田根剛/未来の記憶」展見学を追記 18:40



出来ることをやる、だけでは足りない


一昨夜の建築家仲間での忘年会の帰りがけに、松田・平田設計事務所の取締役から、「大倉さん、次の本を、そろそろ出さないんですか?」と言われて思い出した。
実は、すでに何人かの方からこのことを言われていて、「ふーん、そろそろねぇ」という気にもなりつつある。内閣府の役人にも褒めてもらったし・・・。
でも文章作家でもないのに、読むに足る一書をまとめるのは並大抵ではない。しかも、言いたいことが言葉で言い切れるものではないし。家内は自分の父親が、書くたびにボケたと思っていて、「書くのはもう止めなさい。ほとんど(仲間うち以外)誰も読まないわよ」とさえ言う。
ただ、何かまとまりつつある。しかし、一般社会への説得力のある文章にするための、極め付きの具体的アイデアがまだ見つからない。


忘年会と言っても同業者ばかりだから、隣席、近席間の話は全て建築やデザイン関連。建築家協会の問題やら、「デザインは形でなく、考えをまとめること」などの発言から生ずる議論の連発で過ごす。
判っていることは、「デザインとは何のことか、日本社会では誤解のまま来ていること」、同じ意味で「日本社会がその本質的な意味のデザインを軽視している、というよりか、判っていない。その結果、経済評価しないということ」。つまり「デザインを生み出す職業人に、出来るだけカネを払わない国になっていること」「この結果、才能ある者は多く居るのに、このままでは感性価値を優遇した未来国家は望めないこと」などである。
アーティスト、ミュージシャンや芸人がそのままでは食えないこと、それは判っている。それを育てないという根本の問題であり、その上でデザインは社会的機能があるのだ。
そこで発する問題は「ではどうしたらいいのか」ということだ。忘年会で酒に任せてワイワイ言っているのは楽しいが、具体性が無い。


具体的な話、もしこの考えが認知され社会的に施行されているなら、自分の息子に「他の仕事(建築・デザイン系ではない、自分が思いつく仕事)を探せ」などというはずが無い。悲しいことに、結果的には親のさまよってきた同じような道を息子は歩き始めているが、こうすればいいという道を具体的に教えることが出来ない。というのも、真面目に深く努力すればするほど食えなくなるからだ。
大手のクライアントが、代が変わったり、社長が変わったりすると継続的な業務契約が切られてきた。そんな単純な問題ではないと思ってきたのが間違いだった。事業継続とは他のルールだったのだ。この国の「デザイン」へのトップの理解は、我々が思う「本質問題」ではなく、その場の人間関係(人脈、有力者の後押とかも含め)だったり、単に営業能力だったり、社会的名声だったり、その場のコスト戦略効果(資本力も含めて)だったりで終わっていた。こんな中での、モノや定量的なサービスを売るのではない、「かたちのない考えを表現する仕事、しかも美と体感に奉仕する」に向かっているのでは事業の継続や拡大はとても難しい現実がある。
更に近年、建築設計で言えば、何度も述べてきたように、あたかも建築家を犯罪者見立てで判定するというルールが具体化し、一方ネットの進化が、一般の発注者(設計依頼者)さえ、レベルの低いコンペ(コンクール)仕立ての判定者にまで仕立ててきた・・・。あ、ここで言ってもしょうがない愚痴になるので、もう止める。
ともかくも、自分の子に後を継がせたいと思うような新職業ルール観を何とか、この国に育てたい一心で、本も書こうとするし、セミナーもやろうとするし、人とも接触しようとしている。塾もやればよかったのかも。少なくとも現行の日本デザイン協会(NPO)はこの目的にも役立つはずである。すでにあちこちで書いたように、法改正や知財権へのアプローチもあるはずだ。
過日、ある集まりの後の懇親会で、これも隣の若手と雑談中、「天皇陛下、あるいは皇太子殿下でもが、一言『大事なのはデザイン』と言って下されば、日本社会は一気に変わる」と言ったところ、「あ、そういう考えもあるんだ!」と驚かれたことがあるが、この考えは敢えて口外しては来かったが、イギリスの皇室の例から20年位も前から思っていることだ。ここで言えるのは、日本がそういう体質を持っているということである。事実、江戸以降、黒船の来航と太平洋戦争での敗北という、いわば外圧と、結果的に皇室の関与が無ければ、この国は根本的には変えられなかったのだ。
さて、この後も無理なのか、それとも、このネット時代が変革をもたらすのか。息子にしてあげられることだけでも考え、実行したい。




●「田根剛(たねつよし)/未来の記憶」展見学を追記
ここに追記する筋のものではないのだろうが、息子の話と年頃では繋がる所があるし、外国に居ることで判ることもあるので、追記としてしまう。
アアルトの見学記について述べたことだが、結局、残された時間の少ない身にとっては、人の仕事はもうどうでもよいというところがある。
この展覧会も、ただでさえ東京オペラシティ・アートギャラリーでは行きにくいと思っていたが、若者が何をどのように展示しているのか、どうも気になっていた(今月24日まで)。


行って見て、結果として、何でもやってしまう、その若さに魅了された。
エストニア国立博物館」設計競技で、あの、捨てられた第二次大戦時の空港滑走路を活かして、発射路のような建物を提案した若者である。
外国人であり、得体の知れない若者の提案を採用するところが凄い。2016年に竣工して話題となった。
あのザハが獲った「新国立競技場コンペ」にも応募し、「新古墳」案で選定者とその周辺には話題になったようだ。このように、落ちても構わないから、国際競技には何でも応募する、頼まれれば展示会の内装から、小さなリノベーション、日本の酒醸造会社の酒ビン・デザインまで何でもやる、という魂胆らしい。
大磯と都内の個人住宅の施工例が出ていたが、なかなか実験的で面白い。本人は、「実験ではありません。周到なサーベイの結果です!」と言いそうだが、そのための調査資料や、現場で拾ったもの、各設計ステージにおける10個以上のミニ模型などが並んでいたり映像で見せている。スタッフには模型の役割について語っていて、相当の執念を持っていることが判った。
1979年、東京の生まれというから、39才だ。自分のその年の頃を思い出して他人事でない感興に襲われた。ああ、ヨーロッパでこそ自分を全開放出来たあの時代!
北海道東海大学建築科の出で、国内勤務経験は無いようだ。それが良かった。
他に資料が無いが、パリにアトリエを持っているようで、紹介映像で見ると、若者ばかり10人から20人ほどいるようだ。それで本当に良かった。当面、現地で受注する仕事以外、日本に事務所を移しては駄目だよ!





350235 13:00

大正の時代を想う

浜辺の歌



この間テレビを点けたら、オーケストラ最後のアンコール2度目に「浜辺の歌」を演奏していた。その演奏会の主演曲はブラームスの「第4番」。どこの楽団かと思ったら、NDRフィルハーモニー楽団(アラン・ギルバート指揮)とかで、指揮者とも聞いたことが無い名前だったが、楽団員はほとんどがヨーロッパ人であり、編曲もそうだった。演奏は巧かった。
歌手はいなかったがオケでも十分美しかったし、自然に歌詞が浮かんできた。


  あした浜辺をさまよえば
  昔のことぞ、忍ばるる
  風の音よ、雲のさまよ
  寄する波も、貝の色も


聴いていて感無量になった。やはり自然を謳っている。「荒城の月」もそうだ。耳のどこかから忍び込まれた日本人としての感情が湧いてきた。それを外国人が演奏している。
調べたら、この曲は大正2年(1913)の頃のものだそうだ(大正7年:1918という説も)。
その30年前に、鹿鳴館(1883:明治16年)が建物も、中での行事も参加者の身なりも、全く欧米の真似であったことは無意識でも判っているつもりだったが、実際、このことを彼らはあざ笑っていたという記述がたくさんあると知った。やっぱりそうだろう。あれから130年ほどかけて、やっと欧米人が日本の歌をオーケストラで演奏してくれる時代になったのだ。
この曲はいつ頃から衆生の耳に入ったのだろう? 思い出せば、我々の世代では「荒城の月」だけでなく、「箱根八里」「かなりや」なども、気が付いたら誰でも知っていたし、10才未満でも、これが日本の歌なんだと承知していたようだ。これらの曲が世間に知られたのは、「浜辺の歌」より10年以上古かった。明治34年頃(1901)で、国を挙げて大国化を求めていた時代である。この後、日露戦争(1904)に突入した。
いや、また時代情報にこだわったが、維新が一段落して、民心が新しい欧化時代への予感に心が震え出した、そこに続く大正時代への想いが募る。私事だがこの大正2年に父が生まれている。我々にとって、そういう時代距離感なのだ。あの藤田嗣治はこの年、1年前に結婚した妻を捨て、パリに旅立っている。


歌と時代の空気は個人の脳裏に密接に繋がっている。それも主に、子供時代から青春時代までだろう。加齢化するほど、うざい雑音の集合体のようにしか聞こえなくなる場合が多いのでは。ある時代までは何らかの流行歌が生活の廻りで流れていてそれらの曲を聴くたびに、当時の生活や感情の実感が想い出されてくる。それは当然、その世代、世代でのずれがあるのは仕方のないことだ。
若い人達には聴いたこともないかもしれないが、「異国の丘」「湯の町エレジー」「憧れのハワイ航路」「青い山脈」「長崎の鐘」(1948〜49:昭和23〜24年)などが、夜道や身の廻りで歌われていて、かすかに記憶がある。ということは自分でも、意味も解らずに歌っていたということだろう。「リンゴの歌」とか「東京ブギウギ」とかは歌う気はなかった気がする。
この頃の記憶があるということが、戦後のどさくさのイメージがかすかに残っている世代ということか。後になって、本気で自分たちの歌だと思ったのが「テネシーワルツ」(1952:昭和27年)だったりする。このころから、憧れはアメリカになってしまった。






349265 18:45 350000 12/16 21:05

「釘を打て! 」では済まない

  • また、追記あり  ●以降 12/01 00:30   348960



「へえ!、出してくれたかい」というような感想を持った自分のコメントが、小さいけれど「建築ジャーナル」12月号に掲載された。
これも建築家世界の話だが、ご参考までに元原稿を添付します。

テーマ「は、批評の在り処」で、パネラー:倉方俊輔(建築史家、最近、森美術館での「建築の日本展」を全体監修、話題を呼ぶ。大阪市大准教授)、豊田啓介(建築家、東京、台北で多分野横断型で活動、台湾国立交通大学助理教授)、藤原徹平(隈研吾事務所を経て独立、受賞作品多数、横浜国大大学院准教授)、司会:五十嵐太郎東北大学教授)。以上のように、皆、若い。
公開討論で、その場では発言できなかったが、後から感想と意見を送ったもの。10月20日 建築ジャーナル編集部にて開催。




「くぎを打つ場所を探すべきだ」

建築は確かに個別であり、この国の現実を考えると、「身近に出来ることをやる」、「他人の仕事を褒めてやる」というような会議の流れになったのはよく納得できた。
事実「平成よ、終れ!」という倉方さんや、藤原さんも言う、「昭和からの50年が引きずられ、何も変わっていない」という主張の中からは、当面、この社会の硬直性を打破する本質的な手段はない、と言っているようにも聞こえた。事実、建築評論もすっかり社会に順応している。
それだからこそ、「身の回りで出来ること」だけやっていても、この社会構造の変革のための「釘刺し」になることは生まれないのではないか、という気持ちがよぎった。
より構造的かつ本質的にこの国の「駄目なところ」を摘出して、そこに釘を打っていかないことには、平成が終わっても何も変わらない、となるだろう、と思わずにはいられない。
それは建築基準法建築士法などの抜本的な見直しを含め、政治家やメディア人種の再育成、建築教育の改革など、日本の社会を構成している根本にまで至るが、現状では、「建築士」はもちろん、「建築家」でさえ、出来るだけ法規に順応することを当然と考えるように体内化されてしまっている。
AI化も見込んで世界的に、産業構造が感性価値評価へシフトし始めているというこの時に、建築家にこそデータと経済性万能へのブレーキ役が出来るのに、その前に潰されてしまっている。こういうことに視点と行動力を持つ建築評論家や建築家集団も生まれていないのは、この国の悲劇としか言いようがない。気の付いた有志は改めて協力し、くぎを打つ場所を探し、実際に打っていくべき時だ。



● 後から読むと、自分のことだが、建築誌の討論会のためとは言え、やっぱり狭量、浅薄な意見だなと思う。これは、言ってみれば青踏派の文学のように、実社会の実需を把握した言い分にまでなっていない。
実際の日本社会を動かしているのは経済(カネとそれを動かす仕組み)であり、失われつつあるとは言え、いまだ主導権を握っている政官財のトップ人材、それを支える大手企業と追随するメディアである。こういうところには本質的には何も響いていない。感性価値社会の登場だと言っていながら、である。相手となる者は、既存体質に忖度して逆らうことを恐れ、変革への意欲が薄い。 今後は、この辺へのさらなる論議と戦略こそ必要だろうと自省する。






19:00 348835

出掛けることで忙しい日々

●〜●間、補記あり(11/24 17:30、19:30)


空間が時間をコントロールできる?―――建築家・内藤廣さんへの質問に関して



このところ、勝手に忙しい。 仕事=創造行為でならうれしいが、人に会ったり、見たり、聞いたりするために忙しいのだ。


20日(火)に、「知的生産者の公共調達に関わる法整備――会計法地方自治法の改正――という難しいタイトルのシンポジウムがあった。主催者の仙田満さん(東京工大名誉教授)からわざわざ案内状を頂き、他の予定をキャンセルして聞きに行き、最後まで食事に付き合った。一部国会議員や一般社団法人・公益社団法人の理事長等関係者多数が応援演説をし、だいぶ時間をオーバーしたが、共感するものが多かった。
●「知的生産者」とは、ここでは建築家のみならずデザイナーやアーチストなども含み、自分の考えと合っている。 「公共調達」とは、国や地方公共機関が発注する場合、ということであり、まずこちらから襟を正してもらうという意味で、これも納得できる。
そういえば後ろの席に神田順先生も、案の定いらして、声を掛けられた。●このシンポジウムの内容は又、後で取り上げる必要がある。


21日(水)には、そろそろ終わる「アルヴァ・アアルト」展(神奈川県立近代美術館・葉山)にやっと駆け付けた。実はこの美術館は訪ねたことがなく、こういう機会にぜひと思っていたが、何度も予定をキャンセルすることになった経過がある。素直なモダニズム建築で好感を持てた (設計:佐藤総合計画)。とてもいいプランニングで、遅れてテラスのランチを食べ終わったら、ちょうど4時20分頃。ここから見る、沈みゆく夕日がとても美しかった。
アアルトのことは知っているようで、そんなに深くなく、この機会を得て、何か自分に繋がるものがありそうとの思いを深めた。しかし、家具の実物や写真、建築図面を見ていただけではわからないものがある。これで判らなければおかしいという考えもあるだろうが、作品主義とまで言えない設計観、人生観を持っていれば、当然、そばにいた人、付き添っていた評論家、後からの追跡者などの想いや評論を知ってみなければならない。チャールス・イームズやシャルロット・ペリアンなどを知るにもこのような観点が必要だろう。これも後からの追記が求められる。


22日(木)には、(公社)日本インテリアデザイナー協会の創立60周年記念祝賀会があって、デザイン8団体の縁から出席。なんと20日の「知的生産者・・・」も、こちらも、国際文化会館(東京都港区六本木)での開催だった。
表彰に随分、時間を取られたが、続いた内藤廣さん(東大名誉教授)の講演を聞いて、質問したのが、上記の問題だった(空間が時間をコントロールできる?)。
話は自分の仕事(作品)のことではなく、山手線一沿の都市開発の現状についてと、最近の自分の考え方について。特に渋谷の開発については、トータル・デザイン・コンサルタントの役にあるようで(渋谷区景観審議会委員でもあるらしい)、開発をコントロールする難しさを含め、いろいろの体験話があった。
内藤さんは建築家なら誰でも知っているだろうが、個人的には会ったことが無かったので、これを機会に自己紹介させてもらった。講演内容と質問については、これも別に記述する必要がありそうだ。ちょうど、この前の当ブログに書いた 「30年単位の話」(もっとも内藤さんのは、1988と2018が似ているというイントロだったが) から始まったこともあり・・・。




●一方で突然、不安がよぎる。こんなことやっていて何の意味があるのだろうということ。ここからが本心だが、「知的生産者」に現実の恩恵が生れるのは、もしかすると、あと何十年も後だろう(これについては後から論拠を示したい)。アアルトの仕事を見ても、それは他人のことだ。内藤さんが「これからは時間が主軸になり、それを空間が何とか出来る」と言ったって、質問した通りの本心から言えば、空間に時間をコントロールできるのは10〜20%程度ではないか、が自分の考えだ。
要するに、考えと表現をまとめることがとても難しい状況に置かれているということ。人生の時間は限られている。見えているものがあると言ったって、それをどう要約、表現出来るのか。それが苦しい現実だ。●






・347930  19:30     348200 11/24  19:30

日本の近代について

(例により、後からの追記が増える)


先輩の栄久庵憲司さんがかって、「最近、気になっているのは『近代とは何か』ということ」と言ったことがあった。
年のせいだろうか。他人事とは思えない。問題意識の核にあることではないが、ちょっと習得したことから抜き書きを。




いつからが近代かは、とりあえず置いておこう。
特に日本の、特に近代史だけをを調べてみても100年単位では、我々にとっての身近な生活環境が写し込めない。もっとも100年飛ばせば主要な近代史も終わってしまいそう。そこで、例えば30年単位で見るとどうなるか。それでも飛びすぎてはいるが、大きなスパンで見る意味はある。
しかも、この際、主に経済史的な視点から見てみよう(「日本の近代とは何だったのか」三谷太一郎:岩波新書などを参考に)


変局点を例えば、小熊英二(「平成史」編著者:河出ブックス)が設定する「ものづくり時代の始り」とする1964年(昭和39年)を軸にしてみよう。
この年に東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通し、米月ロケットが着陸した。それから30年ごとの前後はどうかというと…
あっという間に江戸時代に入っていき、あっという間に2023年、つまり来る東京オリンピック後の3年目で、あと5年。
ここで引用した「前」は掛ける6倍、「後」は2倍だが、明治維新から太平洋戦争などまでの大事件もこの中に埋まっている。
この「前と後」の日本社会の変化は凄いものだ。


1844(弘化元年): 半世紀ほども準備期間があったのに、幕府は何も出来ずにいた。ヨーロッパの資本主義を受け入れる気運(開国、文明開化)が滲み出してきたのは土壇場だった。//すでに1790年代(寛政年鑑)には外国船が来始めていた。1837(天保8年)にアメリカ船モリソン号が浦賀に来て砲撃して追い返したが、これを契機に渡邉崋山、高野長英らは幕府の外交政策をきびしく批判し、それぞれ国元蟄居、永牢を命じられた。1840〜42(天保11〜13年)のアヘン戦争で清国がイギリスに敗れ(香港占領)、恐れを抱いた幕府は「異国船無二念打払令」を廃し「薪水給与令」を出した。1843(天保14年)改革は失敗。1844のこの年、オランダ国王が世界情勢を説いて(幕府への報告は毎年あった)開国を進言してきたが拒否。1846(弘化3年)にはアメリ東インド隊司令長官ビッドルが浦賀に来航、通商を要求。こうして毎年のように外国船来航となった。ペリーの初来航は1853(嘉永6年:1848弘化5年、アメリカはメキシコに勝ちカリフォルニアなど西海岸を得て太平洋に視点が向いた。中浜万次郎が帰国したのが1851嘉永4年で、2度とも来日したペリーの通訳を果たせた)(葵文庫が語る江戸後期・明治初期の歴史「天保・弘化期(1830〜1848)」などより)。
1858(安政5年)欧米列強の強さに負けた井伊直弼は朝廷の勅許をえないままに「日米修好通商」を結び、反幕府の気運が急速に高まり、これを抑えようとした「安政の大獄」に向かう。
この後、1868の大政奉還明治維新)となる。
イリアム・モリスが生まれたのが1834(天保5年) ・174年前


1874(明治7年):  「幕末」の匂いがまだ残っていた。//1871(明治4年)に岩倉使節団アメリカ経由でヨーロッパを2年間ほど見て回ったが、この計画は、まだ「攘夷」信仰の残る側近を加えて、変心させる目的を持った内務卿大久保利通の計画だった。1880(明治13年)に福沢諭吉が「学問のすすめ」で、朱子学から離れて「実学」への転向を集大成した。
岡倉天心の誕生が1863(文久2年)、13才のこの年には東京外国語学校にいる。政府はウイーン万国博に工芸品を出品している。鹿鳴館が出来たのが1883(明治16年)。F.L.ライトが生まれたのが1867(慶応3年)。この頃パリで印象派第一回展開催。1883ブルックリン橋完成(ニューヨーク:J.O.&W.ローブリング:「現代建築史」K.フランプトンによる) ・144年前


1904(明治37年): この年の日露戦争開戦を経て、本格的な国際資本主義に転化していった。//これは、日清戦争に勝って遼東半島を占領したのに返せと迫られ合意することになった独露仏の三国干渉を受け、アジアの国の対欧米先進国への弱さを見せつけられて興ったとされる。戦争には勝ち、白人社会を驚かせたが、この結果(ポーツマス条約)のやむにやまれぬ譲歩(もっとやったら確実に負ける)に国内の新聞は民衆の怒りを焚きつけた。1911(明治44年安政5年以来、53年ぶりの欧米列強との不平等条約を解消、対等国と認められた。
この年、天心、大観、春草らが渡米。天心はセントルイス万博で講演「絵画における近代の問題」を行う(「岡倉天心東京芸術大学発行データより)
この年辺りにT型フォード発売。ピカソが「アヴィニヨンの娘たち」を描いた。1907にドイツ工作連盟設立(バウハウスの前身)。ちなみにM,デュシャンが「泉」(男子便器)を出したのが1917 ・114年前


1934(昭和9年):  軍事的な[国際的地域主義]に固まり始めた。//1931(昭和6年)満州事変が始まり、それが終わったことにより、軍部によって引き起こされた国際環境の変動によって、「民族主義」を越える戦略的な「地域主義」に置き換えられた。ここには文化的意味はほとんどなかった。この流れが太平洋戦争へ導く。ヒトラーが政権を握ったのが1933 ・84年前


1964(昭和39年): 上述: 「ものづくり時代の始まり」//これで気が付くが、この30年の間に「国政すべてご破算」と戦後復興が収まっている。 ・54年前


1994(平成6年):   前年にバブル崩壊。経済成長が1%に下がる。小熊は前年1993(平成5年)を「ものづくりの時代の終り、ポスト工業化社会の始まり」としている。//ここからは「平成史」となり、我々個々人の記述になろう。(松本サリン事件発生。翌年1月に阪神淡路大震災発生) ・24年前


2024 (? 6年):   ポスト工業化とネット社会がもたらしたものが問われるだろう。 ・6年後    


後でもう少し、埋めてみたい。
最近著である百田尚樹の「日本国紀」からも引用させてもらった。






・347221 19:00

岩盤規制が日本を亡ぼす

気になるテーマだ



このテーマでの新聞広告を見て、ビクッとした。
十分、頭に入っていると思っていたが、改めて「岩盤規制」と大書きされると、「フム、やっぱりこれだな、自分の関心の核は」という気になったのだ。
と言って、この事自体が自分の専門領域、例えば法学部出で行政や政治に関わった人生ではないこともあり、具体的にはどうすればいいのかわからない。
本屋で聞いたら、何と、売れていて今、在庫が無いとのこと。書名は「日本を亡ぼす岩盤規制」(上念司著、飛鳥新社)だった。注文して届き、先ほどパラパラと読んでみた。
結局、自分の関心領域の記述はなく、がっかり(もっと読み込めば発見があるかもしれないが、当面)。
あった分野、つまり岩盤規制の領域とは、財務省、農業、放送・通信、銀行、NHK、医療・病院、保育園、朝日新聞、となっていて、例えば、国土交通省、建設業界、建築界、デザイン界などというのは無い。




過日、このブログでも取り上げた「落日の建築家」などに関わる記事や情報には飢えているのだが、なかなか一般論にはならないようで情報が少ない(最も、これを専門に探しているわけではないので)。
そこで、というわけではないが、自分で、関係するテーマで「勉強会」を開きたくなった。
というのも、「規制に関わる問題」は運営するNPO日本デザイン協会の課題でもあるし、ちょうど過日、話を聞いた神田順先生(建築基本法制定準備会会長、東大名誉教授)が 「やはりイタリアン・セオリーには思いがある」 と聞き、改めてこのテーマで考え方を確かめてみたいと思ったことも関係する。


「イタリアン・セオリー」とは、すぐにはわかりにくいが、イタリア出身の哲学者たちが、イタリア人の考え方のいいところ、国際性などを、哲学的に問題視した論考の成果のことらしい。
そこには規制に囚われずに、社会と文化を生み出す国民性のようなものが秘められているようで、そこに神田先生は注目していると読めた。
こういう言い方をすると、自分がイタリアに10年いた観点がないのか、と言われそうだが、ケース・バイ・ケースで言えることなら山ほどある。それに、神田先生がどう思っているのかを確かめないと、ということと、あまりに在伊が長かったので、愛憎がただ事ではない状態をバランスを取るのは簡単ではない、ということがある。


ということで仲間内でテーマについてやり取りしているのだが、まず神田先生に聞こうということで始まっている(先生からの参加の合意はすでに頂いている)。
そこで、仲間がこんなことを言っている。
「イタリアンセオリーは神田先生の説明から、現在の法律の複雑化と経済性優先から自由に創ることが難しくなっている、文化が生まれなくなっている問題を示唆している、と解釈しました」と。
それを受けて僕の提案は、神田先生の解釈の明確化をベースに、論点を絞るとなれば、解釈した流れで推定すれば、主な論点は、
1・規制を強める力(法律の複雑化)はどこから来るのか (経済性優先は、歴史、時代性から見て、すでに一般認識に達しているとして主題から外すとして)。
2・規制を強め、経済優先になると、なぜ「文化が生まれなくなる」のか。
3・規制を弱める方法はあるのか。無いとしたら何故か。何か出来ることはないのか。
というようなことではないか、とした。


勉強会レベルだから、この辺までかと思っているのだが、具体的に「岩盤規制」と断言できるような論点を見いだせないでいる自分が心苦しい。
それでも、このセミナーは実現しそうで、近日のうちにここにご案内できると思うので応援を宜しく願います。






・(346890) 19:30

マルセル・デュシャンとは

【追記】を始めています。  ● 最新は11月7日。




現代アートに釘を刺した男。



自分にとって 「だいぶ近付いてきた男」 と言えるだろう。
最初のうち家内は、「この人、ホモなんじゃない?」 と言っていたが、展覧会を見終わってから、「そうじゃなかった」と(笑)。
マルセル・デュシャンは長い間、自分の価値観に合っていると思い込んできて、そうなると、もうそれで終り、という関係だった。


昨日、国立博物館で開催中の「マルセル・デュシャンと日本の美術」展を見て、確認することが多かったと共に、誠実な展示に共感と納得。いい展覧会である。
展示物にはある意味で唐突な感じのするものが多く、しかもメモのようなものも多いし、説明文の分量が多く、しかも文字が小さく、その部分がうす暗いところもあり、読み込もうとすると時間がかかかる。外国人も多く、フランス語が聞かれた。熱心に読んでいる人が多かった。さすがにデュシャン・ファンはいるんだね。


こういうことを言い出していても、デュシャンの実態を説明することは難しい。デュシャンデュシャンでしかない。
カタログや、読んでいないインタービュ記事をまとめた本などを買ったので、この後、例によって、ここにメモ追記していければと思っている。
(346270 17:10)



【追記1】 :10/30 17:00

別にフランス人でなくたって、一回限りの、自分の人生の意味を見つめる人はたくさんいるだろう。
ある意味ではアーティストの全部が、この想いに取りつかれていて、それだからこそアート作品を生み出しているともいえる。
そういう意味ではデュシャンが特別なわけではないが、そこからの「他のアーティストと同じことはやらない」、という信念ともいえる剛直さが見えることは、誰にも真似ができることではなさそうだ。それはどこから来たか。
新しく知ったことは、キュービズムの絵描きと彫刻家という、どちらもアーティストの二人の兄が居て、彼らを追うような少年・青春時代で人生が始まっているということだ。このことは、どこかで違うことをやらないと、いつまでも兄たちに従うことになるという、心地よいかもしれないが、圧迫感もある心情を乗り越える原点を形成したと言えそうである。



【追記2】 11/02 17:00

デュシャンの、徹底して自分を客体化してみる位置に置く、という態度は普通のアーティストには難しいことだ。
「こんなことが好きだから止められない」というのが創作の原点であるようなアーティストがほとんどだろうし、それは主体的な感性から離れられない状況を作り出している。自分の眼を越えて脳裏でアートの機能や時代的意味を考えて創作をするところにデュシャンらしさがあるだろう。
それが判れば、如何に鑑賞者の存在が問題になるかも当然、判ってくる。1957年にヒューストンでの集会報告で彼は、こう言っている。レディメイド作品をアートにする仕組みが説明されている。


「要するに、アーティストはひとりでは創造行為を遂行しない。鑑賞者は作品を外部世界に接触させて、その作品を作品たらしめている奥深いものを解読し解釈するのであり、そのことにより鑑賞者固有の仕方で創造行為に参与するのである」(原出典:平芳幸浩京都国立近代美術館編「百年の[泉]――便器が芸術になるとき」LIXIL出版の「マルセル・デュシャン全著作」p286。この引用は「マルセル・デュシャンとは何か」平芳幸浩著:p102より)
(346540)



【追記3】 11/04  02:45

人には習慣になってしまい、つまらないことでも止められないことがある。
例えば自分の例でいえば、設計した自邸の浴室の壁を檜の板張りにしたが10年も過ぎると当然腐りかけてくる。それを防ぐために板目の見える薄いオイルペイントにした。すると当然、入用後にシャワーの水などが水滴となって残ってくることになったが、それも滲み込むのでないかと気になった。
そのため、今度はそれを最後の入浴後にふき取る癖がついてしまったのだ。
馬鹿な事をやっていると思いながら、出る時に気が付くとタオルを壁に向けている。


デュシャンは自分でも怠け者だと言っていたが、確かに毎日、少しでもキャンバスに向かうような、ある種のバカ正直さは全く無かったようだ。
というより、むしろそのような習慣的な創造行為をまったくバカにしていたのではないかと思う。事実あの産業エポックの時代、歴史的には誰かがデュシャン的行為をすることが求められていたのは明らかだった、と思わずにはいられない。
その時代を認識する分、彼は、いつも脳裏を駆け巡る思考は働かせていたのだろう。
今、自分にとって、小さいけれど大きな課題の一つが、このような習慣を自分はどう扱おうとしているのか、ということだ。時代を変えるようなアイデアもないならば、習慣的行為の意味も捨てたものではないという気持ちも大きくなっている。あるいは、変革を容認するデュシャンの居たような時代はとうに終わっていて、今は変革の整理期、あるいは新しい提案期はないか、という気もするのだ。なら仮にせよ、着地点を定めて日々、創作するということもあるか。
これまで、この国では、習慣によるあらゆる行為の練成こそ技術どころか、人間の知性まで高めるかのように喧伝されてきたし、国民的にもそのように理解されてきたと言えるだろう。
それは確かに乗り越えられている。それに迎合するのでなく、何を習慣化するのか、を自己内で判断して体内化していくということだと思う。それにしても、結果として「ゴミになるような習慣的創作」にならないよう努めることの難しさは変わらない。これこそデュシャンが教えたことではないか。
(346610)



【追記4】 11/07 01:00

それにしてもデュシャンの仕事に、エロスが満ちていると思われるような評論や解釈が多いことが判った。
機械化しようとするようなそれぞれの表現に、エロスなど全く感じなかったのだが。
モナリザにひげを付けた作品のタイトルが、その意味を持っているとか、階段を降りる裸体という作品も、そのことで非難を浴びたとか言われているが、少しも裸体、つまりエロスは感じない。
もっとも、最後の「のぞき見」をする作品(それぞれタイトルは調べて後記)は明らかに人間(男だけか?)の性欲をそそるような構図になっていて、そうなると、エロスがデュシャンにとって終生の主題だったのか、という気もしないではないが。
言えそうなことは、それぞれの作品に、タイトルだけに留まらず考え方の解説のようなものがメモ書きされていたようだし、仲間を使って他人事のように自分の考えを伝えるといったやり方で、言葉を重要視していたことが感じられ、後世の批評家はその言葉に振り回されているために、エロス的視点が多くなったのではないか、ということだ。
典型的なのが、あの大ガラスの作品だが、これは後で検討しよう。
(346790)