「最後の秘境」という現実

「最後の秘境『東京藝大』―天才たちのカオスな日常―」という本が出た(二宮敦人著、新潮社)



なぜ取り上げたかと言うと、僕自身がここの卒業生だからだ。
何が書いてあるのだろうと、やはり気になる。特に「最後の秘境」などと言われると。
本書の得点はかなり、このタイトルの成功にある。
ここに書くのは、メディアに書く書評ではないから、ツイッター風に、簡単に気ままなことをメモしておきたい。


まず、よく書けて、よくインタービュしている。 特に音楽系への観察は著者の関心と理解の助けもあってだろうか、学生への質問もかなり専門に入っている。
いろいろな話題からの連想で、個人的にも学生時代の破天荒な日常を思い出すだけでも感無量になる。
例えば、卒業制作時に寮生活で付き合っていた友人が、寮内にあったアトリエで制作中の巨大な画面の前で、血走るような眼差しで 「大倉!何やってんだ。そんなことでは社会は変えられないぞ!」と僕に向かって怒鳴ったことを覚えている。
十年以上も後になってその彼が、卒業後まもなく電柱に首をくくって自殺したと教えられ、暗然たる気持ちになったものだ。


少々気になるのが、タイトルに見られるように、常識の大学生でないということに取材の力点を置いているためか、常識的な分野とその方面の学生はほとんど取り上げられていないということだ。 それは建築科系や、デザイン系でもプロダクト系などのことである。
言い換えると、この取材のように破天荒な (正確には、自分の表現能力や技術のことしか考えていない、というべきか) 学生が多いために、それを超えることにはどれだけの苦労が要るかという視点はない。
だから、卒業後、この学生たちは皆どうなるのだろう、という、いわば他人事の感想で締めくくれる。
事実、ほとんどの学部、学科は個人能力の活かし方、作家か演奏家という未来しか想定し準備していない(大学側も学生も)。
違うのが楽理科(音楽学部)と芸術学科(美術学部)という視点が著者の分類で、それは当たっているが、現実には建築科やデザイン学部のある部分もかなり違う。 これらの学科は、いやでも「組織社会」「産業人と文化人」「社会化へのプロセス」など、つまり個人と社会の関係を無視することは出来ない。それへの対応が大学側にも弱いのも事実だ。
本書のように締めくくれば異端児の巣窟として成り立つが、歴史と産業社会でのリーダーたるべき「繋ぎ目」は消える。 この多様化と多値化の時代に、19世紀的な天才の出現を待つというのか。
時代は大変換期を迎えている。 しかし「アート」が何であるのかが問われるような視点はない。
しかし、それをこの著者に問うのは酷であろう。  本書は動物園に行くような気持で楽しめばいいのだ。







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