出掛けることで忙しい日々

●〜●間、補記あり(11/24 17:30、19:30)


空間が時間をコントロールできる?―――建築家・内藤廣さんへの質問に関して



このところ、勝手に忙しい。 仕事=創造行為でならうれしいが、人に会ったり、見たり、聞いたりするために忙しいのだ。


20日(火)に、「知的生産者の公共調達に関わる法整備――会計法地方自治法の改正――という難しいタイトルのシンポジウムがあった。主催者の仙田満さん(東京工大名誉教授)からわざわざ案内状を頂き、他の予定をキャンセルして聞きに行き、最後まで食事に付き合った。一部国会議員や一般社団法人・公益社団法人の理事長等関係者多数が応援演説をし、だいぶ時間をオーバーしたが、共感するものが多かった。
●「知的生産者」とは、ここでは建築家のみならずデザイナーやアーチストなども含み、自分の考えと合っている。 「公共調達」とは、国や地方公共機関が発注する場合、ということであり、まずこちらから襟を正してもらうという意味で、これも納得できる。
そういえば後ろの席に神田順先生も、案の定いらして、声を掛けられた。●このシンポジウムの内容は又、後で取り上げる必要がある。


21日(水)には、そろそろ終わる「アルヴァ・アアルト」展(神奈川県立近代美術館・葉山)にやっと駆け付けた。実はこの美術館は訪ねたことがなく、こういう機会にぜひと思っていたが、何度も予定をキャンセルすることになった経過がある。素直なモダニズム建築で好感を持てた (設計:佐藤総合計画)。とてもいいプランニングで、遅れてテラスのランチを食べ終わったら、ちょうど4時20分頃。ここから見る、沈みゆく夕日がとても美しかった。
アアルトのことは知っているようで、そんなに深くなく、この機会を得て、何か自分に繋がるものがありそうとの思いを深めた。しかし、家具の実物や写真、建築図面を見ていただけではわからないものがある。これで判らなければおかしいという考えもあるだろうが、作品主義とまで言えない設計観、人生観を持っていれば、当然、そばにいた人、付き添っていた評論家、後からの追跡者などの想いや評論を知ってみなければならない。チャールス・イームズやシャルロット・ペリアンなどを知るにもこのような観点が必要だろう。これも後からの追記が求められる。


22日(木)には、(公社)日本インテリアデザイナー協会の創立60周年記念祝賀会があって、デザイン8団体の縁から出席。なんと20日の「知的生産者・・・」も、こちらも、国際文化会館(東京都港区六本木)での開催だった。
表彰に随分、時間を取られたが、続いた内藤廣さん(東大名誉教授)の講演を聞いて、質問したのが、上記の問題だった(空間が時間をコントロールできる?)。
話は自分の仕事(作品)のことではなく、山手線一沿の都市開発の現状についてと、最近の自分の考え方について。特に渋谷の開発については、トータル・デザイン・コンサルタントの役にあるようで(渋谷区景観審議会委員でもあるらしい)、開発をコントロールする難しさを含め、いろいろの体験話があった。
内藤さんは建築家なら誰でも知っているだろうが、個人的には会ったことが無かったので、これを機会に自己紹介させてもらった。講演内容と質問については、これも別に記述する必要がありそうだ。ちょうど、この前の当ブログに書いた 「30年単位の話」(もっとも内藤さんのは、1988と2018が似ているというイントロだったが) から始まったこともあり・・・。




●一方で突然、不安がよぎる。こんなことやっていて何の意味があるのだろうということ。ここからが本心だが、「知的生産者」に現実の恩恵が生れるのは、もしかすると、あと何十年も後だろう(これについては後から論拠を示したい)。アアルトの仕事を見ても、それは他人のことだ。内藤さんが「これからは時間が主軸になり、それを空間が何とか出来る」と言ったって、質問した通りの本心から言えば、空間に時間をコントロールできるのは10〜20%程度ではないか、が自分の考えだ。
要するに、考えと表現をまとめることがとても難しい状況に置かれているということ。人生の時間は限られている。見えているものがあると言ったって、それをどう要約、表現出来るのか。それが苦しい現実だ。●






・347930  19:30     348200 11/24  19:30

日本の近代について

(例により、後からの追記が増える)


先輩の栄久庵憲司さんがかって、「最近、気になっているのは『近代とは何か』ということ」と言ったことがあった。
年のせいだろうか。他人事とは思えない。問題意識の核にあることではないが、ちょっと習得したことから抜き書きを。




いつからが近代かは、とりあえず置いておこう。
特に日本の、特に近代史だけをを調べてみても100年単位では、我々にとっての身近な生活環境が写し込めない。もっとも100年飛ばせば主要な近代史も終わってしまいそう。そこで、例えば30年単位で見るとどうなるか。それでも飛びすぎてはいるが、大きなスパンで見る意味はある。
しかも、この際、主に経済史的な視点から見てみよう(「日本の近代とは何だったのか」三谷太一郎:岩波新書などを参考に)


変局点を例えば、小熊英二(「平成史」編著者:河出ブックス)が設定する「ものづくり時代の始り」とする1964年(昭和39年)を軸にしてみよう。
この年に東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通し、米月ロケットが着陸した。それから30年ごとの前後はどうかというと…
あっという間に江戸時代に入っていき、あっという間に2023年、つまり来る東京オリンピック後の3年目で、あと5年。
ここで引用した「前」は掛ける6倍、「後」は2倍だが、明治維新から太平洋戦争などまでの大事件もこの中に埋まっている。
この「前と後」の日本社会の変化は凄いものだ。


1844(弘化元年): 半世紀ほども準備期間があったのに、幕府は何も出来ずにいた。ヨーロッパの資本主義を受け入れる気運(開国、文明開化)が滲み出してきたのは土壇場だった。//すでに1790年代(寛政年鑑)には外国船が来始めていた。1837(天保8年)にアメリカ船モリソン号が浦賀に来て砲撃して追い返したが、これを契機に渡邉崋山、高野長英らは幕府の外交政策をきびしく批判し、それぞれ国元蟄居、永牢を命じられた。1840〜42(天保11〜13年)のアヘン戦争で清国がイギリスに敗れ(香港占領)、恐れを抱いた幕府は「異国船無二念打払令」を廃し「薪水給与令」を出した。1843(天保14年)改革は失敗。1844のこの年、オランダ国王が世界情勢を説いて(幕府への報告は毎年あった)開国を進言してきたが拒否。1846(弘化3年)にはアメリ東インド隊司令長官ビッドルが浦賀に来航、通商を要求。こうして毎年のように外国船来航となった。ペリーの初来航は1853(嘉永6年:1848弘化5年、アメリカはメキシコに勝ちカリフォルニアなど西海岸を得て太平洋に視点が向いた。中浜万次郎が帰国したのが1851嘉永4年で、2度とも来日したペリーの通訳を果たせた)(葵文庫が語る江戸後期・明治初期の歴史「天保・弘化期(1830〜1848)」などより)。
1858(安政5年)欧米列強の強さに負けた井伊直弼は朝廷の勅許をえないままに「日米修好通商」を結び、反幕府の気運が急速に高まり、これを抑えようとした「安政の大獄」に向かう。
この後、1868の大政奉還明治維新)となる。
イリアム・モリスが生まれたのが1834(天保5年) ・174年前


1874(明治7年):  「幕末」の匂いがまだ残っていた。//1871(明治4年)に岩倉使節団アメリカ経由でヨーロッパを2年間ほど見て回ったが、この計画は、まだ「攘夷」信仰の残る側近を加えて、変心させる目的を持った内務卿大久保利通の計画だった。1880(明治13年)に福沢諭吉が「学問のすすめ」で、朱子学から離れて「実学」への転向を集大成した。
岡倉天心の誕生が1863(文久2年)、13才のこの年には東京外国語学校にいる。政府はウイーン万国博に工芸品を出品している。鹿鳴館が出来たのが1883(明治16年)。F.L.ライトが生まれたのが1867(慶応3年)。この頃パリで印象派第一回展開催。1883ブルックリン橋完成(ニューヨーク:J.O.&W.ローブリング:「現代建築史」K.フランプトンによる) ・144年前


1904(明治37年): この年の日露戦争開戦を経て、本格的な国際資本主義に転化していった。//これは、日清戦争に勝って遼東半島を占領したのに返せと迫られ合意することになった独露仏の三国干渉を受け、アジアの国の対欧米先進国への弱さを見せつけられて興ったとされる。戦争には勝ち、白人社会を驚かせたが、この結果(ポーツマス条約)のやむにやまれぬ譲歩(もっとやったら確実に負ける)に国内の新聞は民衆の怒りを焚きつけた。1911(明治44年安政5年以来、53年ぶりの欧米列強との不平等条約を解消、対等国と認められた。
この年、天心、大観、春草らが渡米。天心はセントルイス万博で講演「絵画における近代の問題」を行う(「岡倉天心東京芸術大学発行データより)
この年辺りにT型フォード発売。ピカソが「アヴィニヨンの娘たち」を描いた。1907にドイツ工作連盟設立(バウハウスの前身)。ちなみにM,デュシャンが「泉」(男子便器)を出したのが1917 ・114年前


1934(昭和9年):  軍事的な[国際的地域主義]に固まり始めた。//1931(昭和6年)満州事変が始まり、それが終わったことにより、軍部によって引き起こされた国際環境の変動によって、「民族主義」を越える戦略的な「地域主義」に置き換えられた。ここには文化的意味はほとんどなかった。この流れが太平洋戦争へ導く。ヒトラーが政権を握ったのが1933 ・84年前


1964(昭和39年): 上述: 「ものづくり時代の始まり」//これで気が付くが、この30年の間に「国政すべてご破算」と戦後復興が収まっている。 ・54年前


1994(平成6年):   前年にバブル崩壊。経済成長が1%に下がる。小熊は前年1993(平成5年)を「ものづくりの時代の終り、ポスト工業化社会の始まり」としている。//ここからは「平成史」となり、我々個々人の記述になろう。(松本サリン事件発生。翌年1月に阪神淡路大震災発生) ・24年前


2024 (? 6年):   ポスト工業化とネット社会がもたらしたものが問われるだろう。 ・6年後    


後でもう少し、埋めてみたい。
最近著である百田尚樹の「日本国紀」からも引用させてもらった。






・347221 19:00

岩盤規制が日本を亡ぼす

気になるテーマだ



このテーマでの新聞広告を見て、ビクッとした。
十分、頭に入っていると思っていたが、改めて「岩盤規制」と大書きされると、「フム、やっぱりこれだな、自分の関心の核は」という気になったのだ。
と言って、この事自体が自分の専門領域、例えば法学部出で行政や政治に関わった人生ではないこともあり、具体的にはどうすればいいのかわからない。
本屋で聞いたら、何と、売れていて今、在庫が無いとのこと。書名は「日本を亡ぼす岩盤規制」(上念司著、飛鳥新社)だった。注文して届き、先ほどパラパラと読んでみた。
結局、自分の関心領域の記述はなく、がっかり(もっと読み込めば発見があるかもしれないが、当面)。
あった分野、つまり岩盤規制の領域とは、財務省、農業、放送・通信、銀行、NHK、医療・病院、保育園、朝日新聞、となっていて、例えば、国土交通省、建設業界、建築界、デザイン界などというのは無い。




過日、このブログでも取り上げた「落日の建築家」などに関わる記事や情報には飢えているのだが、なかなか一般論にはならないようで情報が少ない(最も、これを専門に探しているわけではないので)。
そこで、というわけではないが、自分で、関係するテーマで「勉強会」を開きたくなった。
というのも、「規制に関わる問題」は運営するNPO日本デザイン協会の課題でもあるし、ちょうど過日、話を聞いた神田順先生(建築基本法制定準備会会長、東大名誉教授)が 「やはりイタリアン・セオリーには思いがある」 と聞き、改めてこのテーマで考え方を確かめてみたいと思ったことも関係する。


「イタリアン・セオリー」とは、すぐにはわかりにくいが、イタリア出身の哲学者たちが、イタリア人の考え方のいいところ、国際性などを、哲学的に問題視した論考の成果のことらしい。
そこには規制に囚われずに、社会と文化を生み出す国民性のようなものが秘められているようで、そこに神田先生は注目していると読めた。
こういう言い方をすると、自分がイタリアに10年いた観点がないのか、と言われそうだが、ケース・バイ・ケースで言えることなら山ほどある。それに、神田先生がどう思っているのかを確かめないと、ということと、あまりに在伊が長かったので、愛憎がただ事ではない状態をバランスを取るのは簡単ではない、ということがある。


ということで仲間内でテーマについてやり取りしているのだが、まず神田先生に聞こうということで始まっている(先生からの参加の合意はすでに頂いている)。
そこで、仲間がこんなことを言っている。
「イタリアンセオリーは神田先生の説明から、現在の法律の複雑化と経済性優先から自由に創ることが難しくなっている、文化が生まれなくなっている問題を示唆している、と解釈しました」と。
それを受けて僕の提案は、神田先生の解釈の明確化をベースに、論点を絞るとなれば、解釈した流れで推定すれば、主な論点は、
1・規制を強める力(法律の複雑化)はどこから来るのか (経済性優先は、歴史、時代性から見て、すでに一般認識に達しているとして主題から外すとして)。
2・規制を強め、経済優先になると、なぜ「文化が生まれなくなる」のか。
3・規制を弱める方法はあるのか。無いとしたら何故か。何か出来ることはないのか。
というようなことではないか、とした。


勉強会レベルだから、この辺までかと思っているのだが、具体的に「岩盤規制」と断言できるような論点を見いだせないでいる自分が心苦しい。
それでも、このセミナーは実現しそうで、近日のうちにここにご案内できると思うので応援を宜しく願います。






・(346890) 19:30

マルセル・デュシャンとは

【追記】を始めています。  ● 最新は11月7日。




現代アートに釘を刺した男。



自分にとって 「だいぶ近付いてきた男」 と言えるだろう。
最初のうち家内は、「この人、ホモなんじゃない?」 と言っていたが、展覧会を見終わってから、「そうじゃなかった」と(笑)。
マルセル・デュシャンは長い間、自分の価値観に合っていると思い込んできて、そうなると、もうそれで終り、という関係だった。


昨日、国立博物館で開催中の「マルセル・デュシャンと日本の美術」展を見て、確認することが多かったと共に、誠実な展示に共感と納得。いい展覧会である。
展示物にはある意味で唐突な感じのするものが多く、しかもメモのようなものも多いし、説明文の分量が多く、しかも文字が小さく、その部分がうす暗いところもあり、読み込もうとすると時間がかかかる。外国人も多く、フランス語が聞かれた。熱心に読んでいる人が多かった。さすがにデュシャン・ファンはいるんだね。


こういうことを言い出していても、デュシャンの実態を説明することは難しい。デュシャンデュシャンでしかない。
カタログや、読んでいないインタービュ記事をまとめた本などを買ったので、この後、例によって、ここにメモ追記していければと思っている。
(346270 17:10)



【追記1】 :10/30 17:00

別にフランス人でなくたって、一回限りの、自分の人生の意味を見つめる人はたくさんいるだろう。
ある意味ではアーティストの全部が、この想いに取りつかれていて、それだからこそアート作品を生み出しているともいえる。
そういう意味ではデュシャンが特別なわけではないが、そこからの「他のアーティストと同じことはやらない」、という信念ともいえる剛直さが見えることは、誰にも真似ができることではなさそうだ。それはどこから来たか。
新しく知ったことは、キュービズムの絵描きと彫刻家という、どちらもアーティストの二人の兄が居て、彼らを追うような少年・青春時代で人生が始まっているということだ。このことは、どこかで違うことをやらないと、いつまでも兄たちに従うことになるという、心地よいかもしれないが、圧迫感もある心情を乗り越える原点を形成したと言えそうである。



【追記2】 11/02 17:00

デュシャンの、徹底して自分を客体化してみる位置に置く、という態度は普通のアーティストには難しいことだ。
「こんなことが好きだから止められない」というのが創作の原点であるようなアーティストがほとんどだろうし、それは主体的な感性から離れられない状況を作り出している。自分の眼を越えて脳裏でアートの機能や時代的意味を考えて創作をするところにデュシャンらしさがあるだろう。
それが判れば、如何に鑑賞者の存在が問題になるかも当然、判ってくる。1957年にヒューストンでの集会報告で彼は、こう言っている。レディメイド作品をアートにする仕組みが説明されている。


「要するに、アーティストはひとりでは創造行為を遂行しない。鑑賞者は作品を外部世界に接触させて、その作品を作品たらしめている奥深いものを解読し解釈するのであり、そのことにより鑑賞者固有の仕方で創造行為に参与するのである」(原出典:平芳幸浩京都国立近代美術館編「百年の[泉]――便器が芸術になるとき」LIXIL出版の「マルセル・デュシャン全著作」p286。この引用は「マルセル・デュシャンとは何か」平芳幸浩著:p102より)
(346540)



【追記3】 11/04  02:45

人には習慣になってしまい、つまらないことでも止められないことがある。
例えば自分の例でいえば、設計した自邸の浴室の壁を檜の板張りにしたが10年も過ぎると当然腐りかけてくる。それを防ぐために板目の見える薄いオイルペイントにした。すると当然、入用後にシャワーの水などが水滴となって残ってくることになったが、それも滲み込むのでないかと気になった。
そのため、今度はそれを最後の入浴後にふき取る癖がついてしまったのだ。
馬鹿な事をやっていると思いながら、出る時に気が付くとタオルを壁に向けている。


デュシャンは自分でも怠け者だと言っていたが、確かに毎日、少しでもキャンバスに向かうような、ある種のバカ正直さは全く無かったようだ。
というより、むしろそのような習慣的な創造行為をまったくバカにしていたのではないかと思う。事実あの産業エポックの時代、歴史的には誰かがデュシャン的行為をすることが求められていたのは明らかだった、と思わずにはいられない。
その時代を認識する分、彼は、いつも脳裏を駆け巡る思考は働かせていたのだろう。
今、自分にとって、小さいけれど大きな課題の一つが、このような習慣を自分はどう扱おうとしているのか、ということだ。時代を変えるようなアイデアもないならば、習慣的行為の意味も捨てたものではないという気持ちも大きくなっている。あるいは、変革を容認するデュシャンの居たような時代はとうに終わっていて、今は変革の整理期、あるいは新しい提案期はないか、という気もするのだ。なら仮にせよ、着地点を定めて日々、創作するということもあるか。
これまで、この国では、習慣によるあらゆる行為の練成こそ技術どころか、人間の知性まで高めるかのように喧伝されてきたし、国民的にもそのように理解されてきたと言えるだろう。
それは確かに乗り越えられている。それに迎合するのでなく、何を習慣化するのか、を自己内で判断して体内化していくということだと思う。それにしても、結果として「ゴミになるような習慣的創作」にならないよう努めることの難しさは変わらない。これこそデュシャンが教えたことではないか。
(346610)



【追記4】 11/07 01:00

それにしてもデュシャンの仕事に、エロスが満ちていると思われるような評論や解釈が多いことが判った。
機械化しようとするようなそれぞれの表現に、エロスなど全く感じなかったのだが。
モナリザにひげを付けた作品のタイトルが、その意味を持っているとか、階段を降りる裸体という作品も、そのことで非難を浴びたとか言われているが、少しも裸体、つまりエロスは感じない。
もっとも、最後の「のぞき見」をする作品(それぞれタイトルは調べて後記)は明らかに人間(男だけか?)の性欲をそそるような構図になっていて、そうなると、エロスがデュシャンにとって終生の主題だったのか、という気もしないではないが。
言えそうなことは、それぞれの作品に、タイトルだけに留まらず考え方の解説のようなものがメモ書きされていたようだし、仲間を使って他人事のように自分の考えを伝えるといったやり方で、言葉を重要視していたことが感じられ、後世の批評家はその言葉に振り回されているために、エロス的視点が多くなったのではないか、ということだ。
典型的なのが、あの大ガラスの作品だが、これは後で検討しよう。
(346790)











「右脳いかす『デザイン経営』」

本当に、どこまで感性価値を体内化できたのか




「…創造力のある人材は日本には多いはずで、それを競争力にどう結びつけるかが課題」(ボストンコンサルティンググループ御立尚資シニア・アドバイザー)
全く、その通り。でもそれが「課題」であるように、方法も策も全く解っていないのが現実だろう。この社会の仕組みの中で出来上がった個人の内面感覚と、社会の規範は簡単には崩れない。そこからは本質的な変革は起りにくい。


「右脳いかす『デザイン経営』」というタイトルを見て、思った。
日経新聞でも、このような大きな記事を出すようになったか。(10月12日、"Deep Insight" 中山淳史/本社コメンテーター)

趣旨はよくわかる。まさにデザインの時代ではある。「損保デザイン」などと聞いた時から、「デザイン」は完全に拡散したと承知したが、「計画」という概念を優先させていれば、このような使い方はどんどん増えるだろう、と。そういう背景もあるが、それとは一応別に、日経紙が「デザイン経営」とは(期待していなかった。嬉しい話、という意味)。


そもそもこの記事で中山淳史氏が言いたかったことは、日本企業の「技術はなお世界一の水準にあるのは確かだが、株式市場の評価ははかばかしくない。純資産と株式時価総額を比べたPER(株価純資産倍率)」が低く、「トヨタが『解散価値』の1倍すれすれ、日産とホンダはそれぞれ0,7 倍程度と、解散価値を割り込んでいる状態」で、「なぜ、投資家の期待値は低いのか。経営者の言葉や戦略に『車の未来を引っ張るだけのビジネスモデルやビジョンを感じにくい』ということだろう」だった。


当然、米アップルの「製品のすべてに『自由になるために知的に武装する道具』というある種のストーリー性、文学性を織り込み」、「『カウンターカルチャー(既存の体制の枠外から生まれた文化)の申し子』との企業イメージを定着させることに成功している」例などを比較に挙げている。
これらの企業は「みな似ていて、経営幹部にデザイナーを置き、そのデザイナーたちが研究開発や財務にも精通していて、デザイン目線で技術と経営をつなぐ重要な役割を演じる」という。


この後、「サイエンスからアートに」「理論・理性から感性・情緒へ」と、リベラル・アーツ(教養)の考え方に流れていくべきことを認めている。


まったくこの考え方が、最近の自著「クリエイティブ〔アーツ〕コア」に一致しているのだが、産業界からの反応は全くない。(もっとも内閣府知的財産戦略推進事務局長からのお褒めは受けているが。広報能力の不足はもちろんある)。
その意味では中山氏の指摘は、日本の現状を深く突いていると言えるだろう。
ただデザイナーの方にも、試されていない能力はあっても、起業家が善意を持って寄ってきてくれなければ、感性的な弱さからたじろいでしまうという傾向はある。実際、創造性への理解と論理性(財務会計など)はむしろ相反する概念であって、一人のうちでの統合は非常に難しいのが現実だ。どんどん売り込んでいるデザイナーは、本質的な意味でちょっと怪しいところがありそう、という言い方も可能なくらいだ。
そんなことより何より日本の経営者のほとんどは、教養や文化としてのリベラル・アーツが体内に無い。デザイナーに寄りそう気持ちなど全くないのだ。孫正義会長と豊田章男社長にこの本を贈ったら、本質を突いた返事が貰えるだろうか。あり得ない、としか思えない。
40代以上の若手だってそうだろう、教育を変えてあと30年くらい待たないと。当然、その間に新興国にも追い越される可能性も高い。
その理由は明治維新に遡るとは言ってきたことだ。







・19:00 345633

閑話休題

気分を変えて……「越後・親鸞」と聞くと…


最近のフェイスブックなどを覗いていると、皆さんが自分の私的なことだけ書いたり、画像化している。
僕にはどうも、たじろぐ気持ちが強く、書けないし、あまりいい気持がしない。なぜだろう。つい見てしまう癖に…。


なにかやった、どこに行った、誰に合った、こんなものを見た、更には、こんな記憶がある、こんなことをやっていたなど様々だが、個人の主張が悪いのではない。ただそこには何か、自分の記録を残しておきたいという思いを許す何かがあるようだ。それはある意味で、情報過多のこの時代に、人の情報までに巻き込まれて生きる問題がありはしないか。


記録に残すことが意味がある人が書くならいい、でもそういう人は非常に少ないのだから、いい加減で諦めたほうがいい、とは家内も言っている言葉だ。でも、そのような個性的な人(スペシャリストとも言おうか)はどんどん消えている?
誰でもが情報を簡単に共有できるようになって、スペシャリストという一般概念が消えつつつある、とはこの間の集まりでも出ていた。人の情報を貰って、自分の話に組み込んでいく時代を考えると、この流れでも何か、新しい文化が生まれるのだろうか。
ネット情報の集積が何かを生み出すとすれば、今、バンバン自分の事を表現している人は、もしかすると前衛的なのかもしれない。


では、僕も、ちょっと書こうか (この気の弱さ=苦笑)。


ほとんど見ることも無かった「大人の休日倶楽部」というJR東日本の広報誌に、パラっと見たら「越後に残る親鸞の足跡、庄内に生きる蓮如の記憶」という特集があった。
実は僕の父親は新潟県柏崎市の生まれと育ちで、それがあってか、親鸞のことなどはよく口にしていた。
過日、売った小田原の実家には、親鸞蓮如などに関わる書がたくさんあった。でもそれをほとんど、売ったり、寄付したり、廃棄処分にしてしまった。
自分の残された人生の中で、親父が経験し、体内化しただろう価値観を共有するまでの余裕が無かった。
実は父親とは、ほとんどコミュニケーションが無かったのだ。
定年になるまで、日本橋の繊維会社に勤務していて、朝起きると、もういなかったし、夜は8、9時の帰宅。あるいは営業で全国を飛び歩いていたから、月の半分は自宅から通っていなかった。


子供の頃からヨーロッパに憧れていた僕は、父親の関心ごととは全く関係なかったのだ。
今になって、親鸞の足跡を追う旅の案内などを見ると、改めて胸が締め付けられる。
越後に行きたい!という気持ちになる。
父親とは残念だった。もっと、身辺事情を聞いて置くべきだった、という気になる。そして、この百年はあまりに大きな価値観の激動があった時代だということも感じられる。
こうして、急に高齢化が進んだ自分を意識することになる。




・345273 10/13 01:10

まだ発言出来ない?

まだまだ建築家とその団体の話で申し訳ない。一般化するように努めてはいるが。



まだ発言出来ない? ――異端?会員の心情



昨日、役員会があった。
というと、どんな役員会かと思われるだろうが、大きな組織のことではない。
日本建築家協会関東甲信越支部というところの役員会だが、各地域会の代表を集めているので30名ほどもいる。しかし年に数回しか開催されず、上位機能を持つ委員会の追認機関のようなものだと2回出てみた結果、思う。
もったいないことだと思うが、会計報告、事務報告などで3時間を費やしている。それはそれで大切なことだと思うし、やっている人たちの努力を考えると何も言えなくなる。
今回は2時間半で終ったので、後は自由発言ということになったが、発言する人はほぼ決まっている。「発注者支援」を言いまくる若手の相坂研介君(副幹事長)のような人も居て(*)、良いことを言う人もいるが、ほとんどは「では、どうしよう」という具体策が無い。
その報告の中でも「コンサルタントが建築家とクライアントの間に入って来るケースが増え、建築家の出番が無くなっている」という指摘等は頷けた。

感心したのは前回求められた細かい内容の「アンケート」が全部、各質問に対する各人の回答が、賛同、意見、異議に色分け分類され、整理されて一覧表化され、プリントされて配られたことだ。多分、事務の浅尾さんの努力だろう。「アンケート」の内容は、組織改編、各委員会のミッション、各委員会の経費負担などについての意見を求めていた。
このアンケート解答内容では僕だけが異端で、「自由に書いていい」と言う欄だけを拡大解釈して文章化したので、表から文字ばかり溢れかえっている。


(添付写真参照:右側のやたらと文章だけの部分が僕の分)●注:添付できず、後から添付


つまり、事務的な返答には大方の意見と大差ないだろうということでスルー、反対に7月の総会で起った「建築家憲章末尾末梢」事件からヒントを得た「憲章検討会」設置構想をメモったのだ。
でも今の自分には、こんなことを言い出す「この場での発言必然性」について十分、読めていない。それは本部のやる仕事だと言われてしまうかも知れないし、あまりにも内向きなので、「あなたがやれば良いじゃない」と言われるかも。そもそも、ここに居る人たちがどういう想いで日本建築家協会組織に臨んでいるのかがよく見えない。
一方で、自分の考えは、この前の本ブログに記したように、この協会は当面「落日」の中にあるので、よほどのカンフル注射をしないと生き残れないと思っているので、会議の全否定的な発言になってしまいそう。
この落差を思うと、ちょっとたじろぐ。今、言ってもしょうがないのではないか、という気になってしまうのだ。
言い出すべきか、言うべきではないのか、今は逡巡している。



* 注: 会議の途中で「建築通信」新聞9/26号のコピーが配られ、そこで過日の建築家大会最後での40代会員の若手セッションで、4月に設置された「近未来研究特別委員会」の中間報告がされたとし、相坂君が、「組織のあり方では“中立性”と“全国単一組織”を長所に挙げた」、「全国単一組織の利点を生かすためには、各委員会・部会を『活動を共有するネットワーク』、支部地域会は『地域の窓口、アンテナ』に位置づけた上で、支部地域を超えて知見や情報にアクセス出来る体制づくりに向けて、デジタル・アーカイブの整備と各支部サイトのインターフェイス統一などを示した」、 3会ある建築系団体の連携が不可欠だが、「『通常は分離、有事には問題に応じてトップが入れ替わリながら共同で当たる“合体ロボ”形式の連携』を望んだ」と発言した様だ。
こういうことしか出来ないだろうと思い共感したが、ここまで信頼性が失われ、拡散してしまっていると、どこまで現実化出来るか、だ。
メリットとしての“中立性”と“全国単一組織”を考えると、僕の「憲章検討委員会」案はどちらにも関わり、組織の骨髄を示すものではないかとも思うが。システム論に対して精神論か。
この記事を読み込んでいれば、もう少し具体的な説明として発言出来たかもしれない。この業界専門紙のこの記事のトップは 「建築家の生き残りへ、襟を正して信頼回復」 だった。







344777 13:00