「僕の前に道はない」の真意
【日記】 1月2日追記●
このブログをお読み頂いている方々へ
新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしく願います。
右の写真はお出しした方々への家族賀状ですが、家内の描いたヘタウマ羊の絵の下に、「何かを得るなら何かを捨てる」とあります。何やら意味不明の絵の解読は、「羊が夢中で編んでいるのは自分の体から紡いでいるパンツ」ということですが、どうもイラストが的確でなかったようで…(笑)
新年早々から思わぬ引用を。
それは数日前、ふっと浮かんだ問題意識からだった。
高村光太郎の「あの詩」の本当の意味は、何だったのだろうと。
僕の前に道はない
僕の後に道は出来る
ああ、自然よ・・・
僕から目を離さないで守ることをせよ
・・・・・・
僕の前に道がないのは、「自分で考え、選んだ道」が見つからないというのではない、ということだろう、と取りたい。
「僕の道を決めるのは『(大)自然』」であり、一見、「僕には未来を自分で決められない」と避けている、と取れるが、当時の彼としては意識的に自然の摂理に任せようという崇高な感じ方であったのだろう。
光太郎がそういう考えに至ることになったのは、それだけの人生経験をした上でのことだとして読めるが、中学生程度がこれを読むと単純に「僕の人生に道がないのは当然だ」と取りそうだ、ということが気になったのだ。
と言うのも最近、NPO日本デザイン協会として公私立中学校での「人生経験ある大人の職業スピーチ」などが求められはじめ、そこでの言うべきことへの配慮と、自分の中学時代の意識へのフラッシュバックが必要になってきたからだ。
そこには「自分で考え、意思で選ぶべき道」はあるが、時間的な事実として道が出来ていない、と取るほうがいいのでは、ということだ。本当のことは読み切れない。もしかすると近代化社会の激動の中で彼は本当に道が決められなくおびえていたのかもしれないので。
光太郎の真意はともかく、教科書の棒読みなどでは、ちょっとした誤解が人生の大誤解に結びつく心配がある。深読みできるほど知性の余裕がない年頃へのことばの投げかけは難しい。少なくとも、自己の内在性への自覚が育っていない国の子供たちのためには、「自分で考え、選んだ道」が見つからないというのではないとしておきたい。
●光太郎には他に注意しておくべきことがある。
僕が悩み進退を案じてきた視覚表現と言葉の問題で、その両方に才能を発揮できた稀有な日本人の一人だからだ。ウイリアム・モリスのように社会主義運動に身を投じるほどではなかったにしても。
それにしても今思えば、僕の青春時代にこの「道程」を読んでも、こんな風には考えもしなかった。僕の前に道はない、そうだよな、と思うだけだったのだ。
それがどうであれ、ここへの引用は何より、忘れかけたその時代を思い出し、新年の出発に当たり意味のある「気づきのことば」になればと思ったのである。
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