@具体化のための錯綜する思考の整理に悩む新年の幕開け

―やりたいことははっきりしてきた―


新年の発見は鈴木大拙です、今頃。
ちょうど、「新日本様式」協議会(詳しくはこちら)のプロモーション・メンバーとして「日本の売り」は何かを考えてきた過程でしたから、鈴木大拙との出会いは(書物としての出会いだけなら30年以上にもなるでしょうが)、ちょっと新鮮でした。特に長く外国生活をし、妻をアメリカ女性としたことを知った点で、和洋の空論ではないものを感じさせました。
実は何のことはない、明治という大変節に居会わせた宿命が彼の問題意識を決定付けたはずなのですが、ここまたはそこに居て、生活をして行く自分に改めて気付くような話、と言ってしまえばそれまでです。
しかし、ここに来て日本人が何であるかというこの問は、世界のネットワーク化、グローバル化の波の中であらためて求心力を求める力となってきました。
個人が持つ、意味のある情報の交換やその収束ということからも、ネットワーク化は必要であり不可避なのですが、その限度への認識も大切になってきます。大拙の考え方もこういう時代だからこそ意味があると言えるのでしょう。


話はグローバル化になりますが、ちょうど昨日(1月2日)のテレビ対談でアルヴィン・トフラーが、現代の急激な変化の流れにあって、「われわれはグローバル化に多くのことを詰め込みすぎた」と言っています。それはネットワーク化によってますます不可避になっていることに大きく関係しているでしょうが、それに振り回されず、むしろそれと同価値のものとして、個人の行為、立場が編成されなければならないことを言っています。
その端的な例がDIYとNGOだというのです。
グローバル化がもたらす問題は後で更に論じましょう。


われわれは自分でする経済行為をDIY(Do It Yourself)と言ってきましたが、これは「非金銭経済」というべきもので、この分野の拡大が経済社会を大きく変えるだろうと推測されるというのです。これがどんな経済行為なのか、にわかには実感を持って説明し切れませんが、確かに自分で家を建てればコストが大幅に減少します。貨幣経済が無くならない以上、この自己労働価値は何らかの対価を生むわけで、その価値が他の買物などに向けられるということなのでしょうか。余計な投資、宣伝、過剰生産、大エネルギーの浪費、人件費などが少なくなるため、省エネ、エコロジーの立場からも歓迎されるでしょう。NGO(Non Governmental Organization)にも同じことが言えそうです。
「新しいシステムというものは、部分を変えるのでなく全部取り替えることだ」という意味のことをビル・ゲイツが言っているそうですが、ここでわれわれは、そのような観点からこれからの社会を見なければならない、とトフラーは言うのです。すなわち、代わるべき社会のシステムとして、政府と企業とNGOという主要な役割が、それぞれ対等の立場で新しい社会に関る必要がある、ということです。政・官・財に代わる新しいトライアングルというわけでしょうか。こうなると、「市民もそのゲームに参加する必要」があるのです。
ちょうど朝日新聞が新年から、「イエコノミー」(ニッポンの家計)というシリーズ・コラムを始めているのもこれに対応していると思います。
GNPに出ない個人・家庭の消費のケアについてニーズがあるのに、国や企業はこれを放置し、あるいは大切とは思わず、この分野のサービスが極めて貧弱だからです。そもそもこの国はモノつくり企業国家で支えてきた体質だけに、自動車、機械製品、デジタル家電など工業的大量生産品とその産業ばかりが指標になっていて、家計に関る面、すなわち、子育て、進学塾、家事、リサイクル活動、家の改修、ボランティア活動、個人の面から見た保険や医療などは国や企業としての必要なサービスや指針が大きく欠けているのです。それなのにその家計全体の純資産は2082兆円もあるとか(ついでですが、現金・預金・株・保険・年金などが1433兆円、土地・建物などが1027兆円、借金が379兆円)。これはアメリカについで世界2位、一人当りでは世界1位なのだそうです。
これなら、こうした社会状態のところに吹き溜まりのように集まってきたフリーターたちが、リサイクル・ショップなど自分たちの出来ることを始めて、結果として街を再生し始めているという報告もうなづけます。(同じ朝日新聞1月1日「ロスト・ジェネレーション」さまよう2000万人)


そこで次の話ですが、「国家の品格」の藤原正彦さんが、今度は「国家の堕落」という記事を書いていて(文芸春秋2007年1月号)、 その中で「市場原理主義」が日本を駄目にしたと言っています。この世は「効率と利潤の追求がすべて」としてしまったことは確かに問題ですが、市場機能をここまでさげすむには当らないような気がするので、かなり思い切った独断のようにも感じます。でも、この位明確なもの言いも必要なのかもしれません。
藤原さんは言い換えれば、大企業による工業生産指標に依存し切った経済主義国家観しか頭に無いような人たちに腹を立てているのでしょう。これは「イエコノミー」がバランスよく発展していれば、あまり腹も立たなかったのかもしれません。こうしてみると、問題は経済人にばかりあるのではなく、それに癒着している政・官の人脈そのものにもあるはずです。
藤原さんの言い分は、それより、如何に文化についての深い愛着と敬意がある人によって書かれたものであるか、という視点から論じられるべきものと感じられます。なぜなら、「市場原理主義」者たち、つまり経済界で指導者づらをする者とそのシンパたちは、ついには教育まで口出しすることによって、日本人の美徳であった「もののあはれ」などという得体の知れないものをも「瀕死に追い込んでいる」からです。そこに鈴木大拙の出番もあります。


この問題は先の、グローバル化がもたらす問題につながります。
YES OR NO型の価値観から市場原理を取り込む経済指標優先主義万能では、グローバル化もそれ一色になりかねません。教育改革に言及しないとした上でも、個人を生かした「イエコノミー」の経済システムと文化が育っていないこの国では、経済万能にやられっぱなしになってしまいます。国の指針を示す人たちが経済人だけになってしまっては大変なのです。
フリーターになっている日本の若者も藤原さんも結局、そこを怒っているのでしょう。
どれも深みのある話ですが、DIYやNGOの経済活動についてはまだ、どうしたらよいのかよく分かりません。「国家の堕落」は同感で、同じ立場で、経済人に、というより、改革出来ない日本の現行システムだけを維持しようとする者たちに腹を立てている、というのが私の感じ方と立場です。


私の関わるデザイン分野も大きな視点から見れば、このうねりに呑みこまれています。
デザインも考えて見れば、利益追求の組織企業でなければ「イエコノミー」の一部でしょう。受けるべきサービスが整備されていないし、経済行為以外の判断指標がわずかしか受入れられていないからです。こうなると、その一方でグローバル化の負の側面ばかりが締め付けてきます。
しかしデザイナーとしてやるべきことは、未来学者のように、この問題に解決の道を見つけ提示することがまずあるとしても、それだけの追及ではかなり難しいでしょう。その大きな理由は、見えてくるのに時間がかかることと、政治的な発言力が要ること、さらには言葉による説得は私たちのよくするところではない、ということも関ってきます。
私の場合、もう残りの時間が限られています。持てる能力を最大発揮できる方法を考えなければなりません。そこにはデザインの本質から見れば適性不足もあるでしょうが、最近、本当にやりたと思っていることは、こういう問題を空間の仮説として表現することです。


ころっと戦う道具を換えてしまったみたいで申し訳ありませんが、実感です。
勿論、これからも論考し述べては行きますが、それ以上に自分にとって必要なのが、視覚表現上の仮説の実行です。
このような考え方からデザイン、特にNPO法人との関りを見つけて行くところに鉱脈がありそうです。このことから今年の課題も見えてきそうです。