夏休みの想い出 

(29日追記あり

(Memory of summer vacation―Rimembering Shinran, Dohgen, Ippenn, Ryoukan)
                                
      

過日、小田原の実家―例の「なぎ邸」である―で父が残した書物を古本屋に売ろうとして判った事がある。


政治、経済、経営の書籍はまったく売れない。
古書を中心とした本屋だろうから、ということもあるが、発行後10年以上も経つと、それも当然だろうということが判ってきた。時々刻々と動く政治・経済の類は、歴史的な出来事でもなければ、単に移ろいゆくだけだからだ。


ということを考えると、今回の参議院選挙の自民党の大敗は、まさしく新聞が伝えたように「歴史的」な大敗には違いないが、それとても、ある程度予測されていたことで、未来の歴史にあっては「この時点で、日本の政治史が動いた」などとだけ書かれて終わるのではないかと思われた。
それは、今日の安倍新内閣の閣僚発表と発足についても言えそうである。「お友達内閣から手固め内閣へ」とか言われているが、変動する日本社会と世界の本質に迫ることは難しそうだ。


このブログでは政治的な文章は一切書かなかったが、だからと言って、政治に無関心なのではない。ただどこか、政治は「政治業者」のような「馴れ合い専門業」のものであって、並の文化人などが口を挟むものではない、といった一般認識がある。それはそのはずで、国政、国税のありかた、使われ方、問題点などにそれなりに習熟し、基礎データは一応でも承知していなければならないからだ。そこにはタブーの勉強もあるのだろう。専門職が違う上、デザイン・建築・環境だけでもやり切れない課題に埋まっていれば、とても政治業までは手が廻らないのが実感だ。
その上で、そういう中で食える仕組みにはまっていないと、この国では仕事も始まらない。
こうして、二世、三世議員人脈や、お友達内閣人脈が出来上がる。こう考えると、黒川紀章氏の参議院選挙や都知事選立候補は、明らかに裸の王様でしかなかった。

それと同じような事が、メディアにも言える。日本のメディア・ジャーナリストたちは、権力とタブーの構造に逆らわないように育てられた特殊村の人たちで、言っていい事と悪いことを使いわけ(させられ)ている(「騙されるニッポン」ベンジャミン・フルフォード・青春新書に詳しい)。この観点からの論評は別の機会にしなければならないけれど、「建前と本音」がカネの流れに沿って仕分けられている仕組みを知らないと相手にされなくなるようだ。


かの国のように、一国の首相が交代すれば民間の専門家、知識人も総動員して、内閣の構成を広く一般にまで求めるべきだ。あるいはしがらみに染まらずに、個人の信念と自己責任意識に目覚めて行動すべきだ。そういう公民認識が発達していなのであれば、下手に政治参加すると、自分の人生を誤るだろう(事実は、そこまでも自覚のない者が国政に関わっているのだろうが)。
この夏休みに、カレル・ヴァン・ウォルフレンの「日本人だけが知らないアメリカ『世界支配』の終わり」(井上実訳・徳間書店刊)を読んで、ますますそういう気になっていた。(内容は、特に日本人のためだけに書いたものではない。販売目的の命名である)



そんな思いにとらわれつつ、一方で、前述の親父の本棚を整理しようとして始めたら、やたらと「親鸞」とか「道元」「良寛」という名前がついた書籍が多い。


そこで、古本屋がこれならと眼をつけた書籍の一群なので、ちょっとおさらいをしておく気になった。
というより正直に言えば、イタリアにいる間中、気になってしょうがなかったのが、日本人の出生由来に関わる知識が、暗記以外の何も無いということで、帰国したら時間を見つけて、もっと日本の歴史と日本人を知りたいと思っていたことを想起したのだ。
この誘因があって、これらの書物に引きとめられた。
更に言えば、父親の関心部分への自分の無関心が、ここで打開できるかも知れないという身勝手な推測も働いている。


ということで、無知をさらけ出して恥ずかしい事だが、飽きずに読めそうな入門者向きの古書(?)を探して次の2冊を見つけて通読した。今も販売されているのか、当面調べていない。


親鸞」―物語と史跡を訪ねて― 童門冬二箸    成美堂出版
道元 一遍 良寛」―日本人のこころ― 栗田 勇   春秋社
 

さて、内容については、承知していることも少なくなかったが、後日別途に語るしかない。


今年の夏の異常な猛暑のなか、こういう書を紐解いていると、蝉しぐれだけが残照のように焼きついてきたような気持ちになった。