吉村順三と皇居新宮殿

【情報・論】       2015/09/23 修正



どんなわだかまりがあったのか


吉村順三の皇居新宮殿設計秘話を聞く


吉村事務所の筆頭番頭だった上田悦三さんに2時間半にわたって、進行役の今井均さん(日本建築家協会役員)のコメントと、吉村順三記念ギャラリー実行委員会秋山信行さんの図面・スライド提供で、設計当時の話を伺った。
お節介ながら、若い人のために敢えて言うと、新宮殿とは、天皇ご一家が、新年の初参賀で集まった人々に挨拶をするあの「廊下」や、大臣の認証式で見るあの広間のある皇居内の建物のことだ。吉村順三はその設計者だった。

まず書いておきたい事がある。それは、現在でも新宮殿の見学は一般には出来ない、ということ。

設計者の上田さんでさえ、2、3年に一度、建物の検査・補修の腕章をつけて、その関係者10人以内とかと一緒でないと廻れない。もっと驚いたのが、吉村順三夫人が見学できたのが、つい2,3年前のことらしく、しかも何かのグループに添えられてのことだったという。これでは一般の見学が出来るはずがない。
この宮殿が出来たのが昭和43年(1968)11月(落成式)。今から42年も前だ。何と設計者の妻が40年も見れなかったのだ。
そういうことなら、見ることが出来た人の許可されたスライドで判断するしかない!
そして、吉村はこの竣工式典に欠席している。いったい何があったのだろう?


まったく知らない人のために、聞き及んでいることを書いておくと、吉村順三は50年前に、当時の権威ある建築家十人の中から選ばれて、宮内庁からの委嘱で新宮殿を設計したが、基本設計段階で主役を降り、後はいわばアドバイザー役になったらしい、ということだ。
実際には、起工式から一年後に「辞任」している。
もちろん本人は、実施設計、現場監理までやるつもりだったようだが、宮内庁との折り合いが悪くなり、契約が基本設計までと読み替えられたようだ。
こうなると、悪い方への推定だが、工事を始めているゼネコンにも設計部があり設計者もいるわけだから、そういう流れになったのなら、あるいは、すでに建築家を先生として立てる風潮が消える時代になりつつあったのなら、何らかの意図(例えば宮内庁シンパの関係建築家委員などがいて、自分の肩車を担ぐためなど)がある場合には、宮内庁担当者に「ここまで来れば吉村先生が居なくても出来ますよ」という入れ知恵も入れ易くなる。
当時の新聞、週刊誌などには「設計者吉村順三宮内庁と喧嘩」などの派手な見出しが煽っていたように覚えている。僕が大卒後、サラリーマンになって3年目ごろの話だ。


上田さんの話から伺えたのは、基本設計段階で吉村が設計内容を出来るだけ周囲の宮内庁関係者に見せないようにしていたということだ。それは、見せれば、いろいろの希望や注文、あるいは変更要求などどころか、関係委員や外部者の横やりが出てきて設計が進まなくなることを心配してのようだが、任されたのだから建築家の一存で進めるべきという自負があったようにも感ずる。
まさしく巨匠時代の建築家というべき心意気で得心するが、ここに吉村の自負=日本を背負って立つ独立建築家の気概が、実は結果として「合意を優先する日本の社会事情を軽く見た思いあがりでしかなかった」ということにもなったのではないか。
この間の二年間、宮内庁の担当職員はやることがなく不満を増長させていたらしく、これが問題に発展したと思われる。宮内庁は「宮殿設計の基本的条件について」という、自庁から見れば「指示書」に当たるものを出していたので、逐一相談を受けながら設計に介入できると思っていたらしい節が読み取れる。ここに、この「事件」の核心が潜んでいる。


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しばらく脱線する。
これは現在の設計者と建て主の関係で折り合いが悪くなるケースとまったく酷似している。設計者は専門家としていいものを造ることを任されたのだから、任せてもらってグチャグチャ言ってもらいたくないと考え、勢い口数が少なくなる。
一方、気掛かりな建て主は、いちいち相談してもらいたくなる場合が少なくなく、それは当然ながら「素人の身勝手でもいいはず。個人趣味が強くてもいいはず。素人でも一生懸命調べ勉強したことにはちゃんと答えてもらっていいはず」となる。その一方でコストダウン要求もきつくなるのも当然だろう。こうなると設計者の負荷は増えるばかりだが、「商売としてカネを受け取る身ならその位当り前だろう?」となる。
こういうジレンマの中から、現在では「仕事の出来る設計事務所」は設計者の「面白味」などどんどん排除しているし、ハウス・メーカーなどは決まったパターンに持って行くべく営業マン主導に徹してきたはずだ。
つまり現在では、建築家の「いいものを造るのだから任せろ」などは「巨匠時代」の名残であり、設計者の「あまり言わないでほしい」という願望さえも止めることが、業務理解の第一要諦になっている。とことん相談に乗り、折れるところはどこでも折れる、言い含め得るところは思い切りやる、というような要領のいい者が仕事を続けられることになっている。

住宅と公共建築は一緒には出来ないが、おそらく今振り返ってみると、このような「建築家の主導」が崩れた現代日本建築史の最大の山場が、この皇居新宮殿の設計にあったのではないだろうか。
これ以降「巨匠の時代」が終わったのだとすると、吉村順三は、体を張って最後のあがきをした建築家の一人ということになる。その自負とそれに伴う自己責任感の大きさは、我々が決して忘れてはならない原点を残していると言えよう。

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「設計の質や内容のことを話さないで吉村を批評する」と思う人もいるかも知れない。それは困るから、そちらの話に移ろう。吉村順三のした仕事は正しかったし、その自信が衆愚の雑言を押さえつけることは必然だったことが判るのだ。
ただどう話しても、空間の質はその現場にたたずんで、しかも日常の使用に供してみなければ本当の価値は判らない。その意味では、図面と断片的な写真だけで判断せざるを得ないのは残念だが、その上で「これは凄く良さそうだ」との思いを先まわって伝えておきたい。
もともとこのトーク集会は、先に紹介した林寛治氏(9月13日当ブログ「美しいまち山形県金山町」参照)の思いを受けて今井氏が動き、成し得たものだという。林氏は、東京芸大教授だった吉村順三の教え子だったはずで、「軽井沢の夏の家を始めとする住宅も確かに吉村さんの代表作品ではあるけど、僕は新宮殿こそ吉村順三の代表作品としてもっと評価すべき、と思うけれどね」という話が発端のようだ。もちろん上田氏と林氏の接点はあった。

スライドでいろいろの場所、いろいろのアングルやディテールを見せてもらったが、変に伝統にとらわれない伸びやかな和風建築になっている。特にむくり(カーブのある斜面)のある入母屋屋根には、イメージの決定力があるだけに苦労したようだ(置屋根形式)。この屋根は日本瓦にすべきだとの審議会委員の強硬な主張もあったとのこと。実際は銅板に焼きつけ塗装したかわら棒葺とのこと。なぜ自然放置で青銅色のついてくるものを使わなかったのかと言えば、竣工時から青銅色を見せたかったからとのこと(聞き取れないところもあり、もしかすると記憶違いも)。
この屋根のおかげで、軽快で明るいイメージに統一された新宮殿が出来上がった。瓦屋根だったらと想定すると、ぞっとする。

全体プランは、行っているわけでもなく駒切れのスライドでは、イメージ全体が繋がったというのでは嘘になる。それでも、空間心理を十分知った無理のない動線、合理的な素材の使い方、高貴な雰囲気に合った適切で緊迫感のある空間量と質、景観もうまく取り込み明るく明快、と感じ取る事が出来て言うことがないように思えた。スケールが大きくても、なるほど吉村流、と感じさせた。
面白いのは、コンクリート打ち放しの柱が直塗装仕上げだったり、漆喰の壁になりそうなところが塗装金属パネルだったり、障子紙はファイバーシートだったり、アルミ製ブラインドが多用されていたりと、現代の建築材料や工法がどんどん使われていることだ。無駄なところにはカネをかけないように、コストとメンテナンスのことを優先に考えたようだ。


プランは方形だが、意図的に崩している。
車寄せが大広間ブロック(設計図呼称のまま)の中央に無いのが典型的だ。しかし軸線は通していて、この建物の中央(たぶん、天皇ご一家のお立ち台の部分)が真後ろの天皇の私的な出入口と合っている。
誰でも知る大広場の地下は全面駐車場になっており、200台は入るようだ。これも最初はなく、上田さんの提案のようだ。
6つのブロック(それぞれがひとつの入母屋屋根で覆われている部分)と、3つの休み所(来賓が天皇の接見を待つ所で、それぞれ独立の小屋となっているようだ)からなり、高床連絡通路がこれらをつないでいる。給仕や要員のための通路は地下で繋がっている。
柱間のスパンは7800㎜にしてある。鉄骨・鉄筋コンクリート造で地階、一階、主階(2階)建。
敷地面積  ≒6.6万㎡ ≒2万坪
建築面積  15,642㎡ 4,731坪(地下駐車場7,185㎡を除く)
延べ床面積 26,867㎡ 8,127坪(同上)
工事費は吉村事務所で、基本設計見積もり時に100億ちょっと、工事途中で134億円(すべて含む)だったとのこと。

上田さんは基本設計とは言え、ほとんど実施設計並の図面を仕上げていたと証言している。それが断りもなく変えられた部分もあるとのこと。
その他、吉村事務所らしい細かいところで面白いところが沢山紹介されたが、図面も写真もなく語られるのではたまらないでしょう、と思うので、この辺で止める。

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何人か抱えては居たが、吉村順三という個人名でこんな大工事の設計を受注していたのだ。これはいったい何だ?
ブラマンテやミケランジェロサン・ピエトロ大聖堂を「設計」した。
要は、一番重要な基本設計は「能力と経験があれば」個人でもやれ、個人がやるからこそ、統一したイメージにまとまる、ということだろう。我こそはと思う連中がコンペに夢中になるのはこの理由による。
「巨匠時代は終わった」のは事実だが、それは、オールマイティへの不思議な思いあがりと善意から、建築職能を施工面まで面倒を見、出来れば責任を取ろうとして足をすくわれたからだ、と思われる。
日本の産業構造の複雑多様化、個人評価を許さない組織の進化。どんどん進む素材、工法、管理技術の進化。これらに伴うグループ・ワークスのスキル・アップと結果として起きたIT情報化。また結果として起きた机上論理性の強い法規行政のしめつけ、工事責任所在の明確化要求、などに建築家自身がいささか無頓着過ぎたのだと思う。


今になって極論すれば、建築家協会などは、実施設計含みの基本設計までを受け持つ「イメージ・クリエーター」として、この巨匠時代のうちに、国の認知をうまく取り付けるように働きかけて、システムを構築する方が正しかった……と思えてくる。それでなければ「個人を立てる公共職業」なんて、この国で育てる方向で認めにくくなるのは十分予想がついたはずなのだ。
今となれば、少なくともBIM(*)の利用がCADに強くなくても可能となり、あるいはペンタッチのCAD作図が簡単に出来るようになり、充分に活用出来るようになれば、建築家は創造にもっと注力できるようになり、「イメージ・クリエーター」としての存在意味が明確になるはず、と思えるのだ。


吉村順三は、その意味では「最後の個人理念に基づく建築家」の一人であった。言い方を変えると、ここまで「個人理念への信仰と執念」があり、その分、課された課題に全霊の責任を取る覚悟があって始めて、社会的に認められる建築家像となったのであろう。そう見てくると、現在の多くの知られた建築家の腰の弱さではこの先が思いやられる。
吉村順三の苦渋を察するにつけ、こんな風に考え、他人事と思えなくなるのだ。


(*)BIMについては、本ブログ2009年10月10日「BIMの実態}を参照。


(9月17日、日本建築家協会JIA館1F建築家クラブにて 主催:住宅部会、協力:金曜の会)






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