安心できない日々
【論】
安心できる日のために
被災地域の人たちが苦しみ、頑張っている報道には頭が下がるとともに、日本人の力強さもを感じさせる。
しかし、NPOの理事会では、組織の規模や、デザインという分野であることから、これと言った効果的な救援活動が出来るわけではない。当面は様子を見守る、という結論になった。
実際、いい人間らしく被災地にかけつけたり、義捐金を出しても、やらないよりはいいにしても、どれだけ救済力になるのかは読み切れない。
震災の前に当NPOに、生徒の修学旅行の訪問先として相談のあった、仙台の七ヶ浜中学の担当の先生にも連絡したが、特に希望は語られなかった。生徒は全員無事とのことだが、校舎は大きく損壊したようだ。
私個人としても、ここ数日、あらゆることに本気で手がつかない。
変化の心理を読みとこうと、外から見たら老人ボケのような日を送っていた。
この天災で疲弊日本の何かがまた変わる予感がして、書きためていた原稿を読み直すことになったのもそんな気持ちからだ。
うまく説明しようとした日常のあらゆる不満や愚痴への解釈が、それでもまだまだ虚しい感じがして、更に建設的な言い回しになるように微妙な書き直しを始めたところだ。
読んではいないが、高橋洋一の「官愚の国」という新しい出版書の新聞広告文字が気になった。このところの首相近辺の動きにもいらつくことが多いが、どうも国の中枢の判断力、実行力に能力の限界を感じざるを得ない。一生懸命やっているのだろうが、ヴィジョンが見えないし、何をどうするという具体的な指示発令がほとんどない。
一年後、2年後、3年後、5年後、10年後、20年後、50年後のヴィジョンがなければ国民は安心できまい。
原子力発電に対しては専門家に任せるしかないが、我が国の総発電量の1/3程度もまかなってきた原状からは、じゃあ止めた、というわけにはいくまい。どういう対策があるのかは今後の大きな課題だ。聞くところによると、原発付近の住民にはかなりの保証金が配られてきたのだというが、このようななだめつすがめつの解決策では済まない国際間の問題であることが明らかになっている。
炉心の格納庫をダブルにして、鉛壁の厚さを倍増させるとか、設置場所をより内陸に置き、免振構造にするとか、給水・排水系統や電力回路などに2次、3次の補完システムは当然必要になるだろう。使用済み炉心の冷却方法にも新しいシステムが必要だ。
人災と言えば計画停電も失敗の計画ではないかと思う。生活者側から見ればこれで経済が疲弊してゆくとさえ思える。夏の甲子園高校野球を止めるという考えも含めて、もっといいアイデアがあるはずだ。