画像がないのはなぜ?

【告示】


画像添付におびえる?




再告します。

時々、言ってきましたが、このブログには画像がありません。 弱みです。
画像の効果を知らないわけではないのです。
ただ私の言いたいことは、そのほとんどの内容が、画像で説明してくれることではないのです。 また提示画像が適切でなく 「思考が振り回される」 ことも危惧しています。
人間の複雑な感性のほとんどは、視聴覚だけで表現することを越えています。特に時代の変わり目で、価値観が大きく変わりつつある時です。
動画像で、しかも編集して数分見せられるなら、このことが何とか説明できるのかも知れません。でもそれではもう、映像作家としての創造時間が必要でしょう。 簡単に済ませたいのです。


そこまで行かなくても、設計中のプロジェクト・スケッチや完成現場とか、もっと卑近に例えば過日亡くなった「まさる」(柴犬)の話(当ブログ 5/9、5/17)などには、その顔写真を添付するくらいのことがあった方が親しみが一層強くなるなどのこともあるでしょう。
でもそうなると、見せられる現場写真を撮っておくは当然としても、どれを使うか、なぜその写真が必要になるのかとか、デスクトップを離れて「まさる」の写真はどこだ、と探さねばならなくなります。その上での貼り付け作業。適切ないい画像(言葉で言うことをサポートしてくれるか、その上を行く)が無ければ、「思考が振り回されそう」。それなら出さない方がまし、と思えてくることです。ただでさえ、専門でない文章書きは苦痛で、取られたくない時間を取られています。
つまり、今度はこっちへ来ると、映像つきブログを整備している時間的余裕が無い、という勝手な言いわけになるのです。(両方はやっていられんよ、か。笑)


念のために追記しますが、自分の仕事の核は視覚的に表現することです。仲間や先輩、若者がいい仕事(主に建築、デザイン)で大きな努力の後を見せてくれている時、ますますこの観を強くします。私にとって言葉での表現は、本来的には(社会が建築やデザインを理解し、優遇してくれるような時代ならば)補完的なものなのです。
こうして、当面このブログは、その下手な言葉での表現だけで、手一杯という気持ちとなるのです。この種の作業は、スタッフなど他人任せには出来ないと思います。


恥ずかしく言いにくいことですが、それで気がつくのは、何度か教わった画像の貼り付け方をその度に忘れてしまう愚かさにも怯えているからだ、ということもありそうです。
これが言いわけとして受け入れられるのかどうかはわかりませんが…。
どうか、このところをご理解ください。近いうちにこの「精神障壁」をクリヤ―したいと思ってはいます。

以上、閑話休題です。



「参考」
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