何で僕はモノから離れたのか(その2)

【論】(前の日の続き) RV:20150523


「何らかの人間への寄与のある計画行為」とは何だ?



それは、少なからず人間の生活空間に関わるような「場の設定」ならそれでよく(無意味なことはなく)、更にそこに美や驚きを持ち込めれば生涯の仕事になる、という考えに繋がってゆく。

それが、僕の考えた「デザイン」だった。プロセスはその結果の関心事で本筋じゃないと言いたいが、この「プロセス」こそが創造行為の本質を握っている。
そうなると関心は、モノや空間でありながら「プロセス」が無ければ興味が半減してしまうことになる。
その辺りの獏とした想いが結局、僕を建築家の世界に向かわせた。




でもモノから離れても仕事をしたことにならない現実があった



ところがこちらに入ってみると、資格や法規がすごく、そうなると完全にこの筋のフォロワー(資格を取って就職を優位にするというような考えがメインの人たち)も激増していて、このイバラの道を通過しなければならない。その上、設計業務は「営業活動」というまったく別の分野の活動が無ければ仕事なんて来やしない。


そこで改めて唸ってしまうのは、こういうことが世情では「当然でしょ」と思われていて、僕の云う「創造プロセスへの関心」なんかを営業ツールにしてもよい(そんなことを言っていても営業になる)、などと思っている建築家、デザイナーや一般顧客があまりにも居ないことだ。もちろん、言っていても済むか、言うしかない大学教師は、賃金が他から来るために免罪されているが。


結局、仮説としての「デザイン・建築」を、現実の経済活動でやる道はほとんどふさがれてしまった。
別に嫉妬でも恨みでもないが、こんなことであるなら、本質を追えず設計事務所の収支や人材確保ばかりにに苦しんできた何十年かを思えば、新しいアート作品を創ることに専念しても良かった、むしろ、そちら側からの主張の方が一般人は言うことを聞く、とさえ思うのだ。
デザイナーで早々とこれに気づいたのが横尾忠則だった。最初からアートで新味をと狙っていたのが、例えば千住博杉本博司だったのかも知れない。批難を恐れずに言えば、このあたりはアイデアを除けばグラフィック・デザイン以外のものではない。(それなのに彼らの作品は1千万円台にもなっているという)。


こうなると、「何らかの人間への寄与のある計画行為」とは、本当に何だ? 人間に役に立つなんて、個人の勝手な想いであって、そんなものはあると言えばあり、無いと言えば無いようなものではないか。
現在の心境とはそんなものだ。
だから(そういうトラウマを抱えていることからも)僕は結果としての自分の作品を創ることを諦めはしない。(シェア・ワークや共作をしないということではない。筋が通ればこれも作品だ)。

(この後、続けられるかどうかわからない。様子見しかない…そろそろ話題も変えたいし)