何で僕はモノから離れたのか

【論】 RV:20150523


興に乗って、すこし自己の創作内面を語る…


マンジャロッティ、原研哉と繋げて来たので、もう少し、この硬めの話を続けさせてもらいたい。
(何らかの機会でお会いする方々から、「ブログ、読ませてもらっていますよ。専門の難しい話は飛ばしますが」ということを伺っています。
その意味では、ここでの話は聞きたくもない内容なのかも知れません。
でもクリエイターの思想的困窮―偉そうな言いかたですが、思い悩んでいること―を知って頂くことは願ってもないことです。
実例を伴うなどして、できるだけ意味の解るように心掛けますので、よろしくお願いいたします)。



さて、モノへのこだわりの話である。
今、水族館に納入されるような透明アクリルを使って方形の水槽を作るとしよう。
サイズは美術館に入るような大きさなら出来るだけ大きい方が良い。最低でも一辺3mほどは欲しい。出来れば5m、8mといった大きさだ。それに水(場合によっては透明な着色染料か樹脂ジェルなども考慮)を満杯に入れて上部にも同じ素材で蓋をする。水槽の巨大サイコロだ(この底に、福島原発大飯原発の模型でも沈めれば政治的意味は巨大になろうが、当面、ここでの主題ではない)



実行すれば、これだけで、どこかで行う現代アート大賞の可能性が大きい(と信じる)。予感としては、何かとてつもなく美しいに違いないと思える。
しかし、意味などはない。あっても、もっともらしく現代の意味を「こじつける」ためにある。例えばこうだ:
「現代は情報と技術が人間を飛び越えてしまった。そこにあるのは、本来の人間性にとってみれば『空虚のみ』だ。この透明な箱は圧倒的な質量と存在感を持ちながら、中身のない人間集団の重みを現わしているのではないだろうか…」云々


人間の目をまったく新しい視線のもとに置くだけで、現代芸術は行きつくところまで来たのだ。行きついた先は、例えばこんなところだ。モノへのこだわりはこんなところまで来ている。
これをやればいいのだが、それが何を意味するのかを考えると、僕はそこで止まってしまう。モノ(もう気づかれたように「空間」でもよい)への思いが行きついた先は、こんなことなのか、と。
社会の構造と人間の剛を知ってしまった身としては、この水槽を実際に造ることは、芸術家の「虚栄でしかない」と映るのだ。
(こういう事を感じないで済む民―それは歴史のある時点で、その時流に合った感じ方の出来る時代と年代《年令》があり、それに乗ることが出来る者―にとっては「やる意味がある」「やらねばならぬ」ということにもなろう。例えば現代中国の芸術作家、アイ・ウェイ・ウェイの立場がそうだ)
(更に「虚栄」については戦中の哲学者、三木清に遡って論じなければならず、ここでは省略する * )



こういう思いに捉われた場合の作家は、ではどうすればいいのか。
世には、そこまで行ってやらないのは能力と才能がないからだとか、年をとってエネルギーがなくなっているからだ、などと言う人もいるかも知れない。それはそれで自由だ。もっとも本当に才能が、エネルギーが無くなっているのかも知れないが。
そうではなくて、自分のやりたいことは、自分の創造行為でありながら、何らかの人間への寄与がある計画行為なのだ。
ここから先の抽象的な議論には、飽きてしまう人もいるかも知れない。明日以降に、意を変えて引き継いでもらおう。

(* について:2012/2/13当ブログ:「青春の想い出」参照)