自著用の「はじめに」第2案
【論】 ●印以下18日に、全体に追加、修正。●●は19日、●●●は20日の主要追加。
12日の出版原稿の「はじめに」は、どうも歯がゆい。そうではないのかも知れない。
本文の内容についてはすでにいろいろな草稿があるので、ここでは「はじめに」について更に書き直し、第2案をトライする。
「はじめに」
クリエイティブ・プロを活かす国へ
何か人生と社会がすごく簡単に見えてきました。時代がある頂きに達し、あらゆることが同じ地表にあるように感じられ出したのです。
そんな思いの中から、本書ではアートとデザインと建築を一括した視点で眺めていきます。
それが本質的に同じ土俵に乗るのであればしめたものだし、そうでなくとも本書は意図的に同じ構造を持っているとする立場で話していきたいと思います。
ただ、それは創る側の直観として言っていて、その限りではこれらのどの分野でも、何でも一括してしまえるという立場に立っています。
●●このような分野でも、それなりのアウトラインは必要でしょう。それをあえて言えば「視体覚系ハード・クリエイティブ・プロ」(以下便宜上、「視体系プロ」)としておきます。変な言い方ですが、「視体覚」とは「視覚」と、触覚や空間への感覚なども含め「体が受ける感覚」をつづめて「体覚」としてしまったことによる造語です。聴覚や味覚もありますが、メインは「視体覚」です。これを操って、主にハード(またはソリッド=具体的な形態に結集するもの)な分野で、クリエイティブな表現をするプロフェッショナルのことです。
ここまで言っても、もっと具体的に、どういう部分についても説明しないで一括と言ったって、一般の人には訳が分からないでしょう。
気が付くだけでも以下のような分類のポイントがありそうです。
発想の仕方
対象となる社会と現在の分類による位置
技術・経験値の必要度合い
実際の顧客層はどこに、それでどう対応するか
コスト・作品の商品価格の設定の仕方や契約の概念
それを認知する社会環境
これらについて、アート、デザイン、建築がどう同じなのか(違うかでなく)を論じればいいのでしょう。
深刻に考えると、どんどん分析的になって、「やはりあまりにも違う」となってしまいます。そうではなく、「同じだ」と言いたいのですから、分類してもあまり意味が無いように思えます。その辺を承知して、気の付く面から類似性について出たり入ったり、オーバーラップしたりしながら議論をしていくつもりです。
同じとする場合のポイントは、
1・個人の創意が原点との認識(1)
2・直観を活かしたコンセプトありき(2)
3・(1)と(2)を合わせたことがクリエイティブの原点だとの一般認識の無いところでやっている
4・事業化(収入を得る仕組み)の必要や、そのための手立て
5・何がなんでもやる執念
の五つではないでしょうか。
例えば…
アートでは村上隆氏(知っている人は知っているモダン・アートの日本における当面の旗手)が、「描きたいように描くのではない。コンセプトなどの戦略が必要だ」という趣旨のことを言っています。これってビジネス教書の言い方と同じじゃない? 事実、会社を作って事業をしています。●さらに下請けに徹せよと言わんばかりのスタッフへの強要もしています。
そこまで行かなくても、デザインだって、建築だって、コンセプトや戦略が必要です。
デザインについては以前から確か、啓蒙運動、理念化、事業化と言ってきたGKデザイン機構の栄久庵憲司氏がいます。理想ばかり語りやすい未成熟の職業でも、執念深く仕事を取って、利益を出さないようではデザイナーとは言えないのです。最近、聞いた話でも「つかんだものは離さない」「デザインはいまだにデフィにっション(定義)が出来ていないために、社会的な発言力にならない」とのことです。
プロダクト・デザインは個人の能力だけでは商品にならない時代になってしまいましたが、デザイナーでなくとも良いとするなら、スティーブ・ジョブズ氏のやったことは、社会や人をワクワクさせたいという価値創造でかなりデザインの理想に近いと言えるでしょう。
建築については、最近では創意や直感と言う言葉ではあまり語られなくなりました。建築士試験と建築基準法の縛りで、分析的な精神が主役になってきたからです。しかし、ハウスメーカーなどと同じ土壌で戦うことを避ければ、分野としてのデザインなどよりもっと、もっと創意や直感が出しやすい分野のはずです。
そうした厳しい環境の中で、仕事を取るためには土下座しても取る、と聞いている安藤忠雄氏などはまさしく、個人能力を軸に仕事を求めているクリエイターには鏡となるような話でしょう。
これだけでは、同じだということににならない? ●●それでいいんです。本書はこういう下地があることを知ってもらい、その上である職業観について見ると、同じようなことが多いんだなと気付いてもらえればいいのです。
そう言えば、こういう職業を身を持って体現した非常に近い人物がいました。建築家ル・コルビジェです。彼は建築家でありながら、絵も描き、家具のデザインなどもしたのです。それは余技ではなく、そういう分野について本気で取り組んだのです。本書の主題とコルビジェのことだけで一書が書けてしまいそうなので、ここはこれで止めておきます。
知られた傑物を求めてさらに遡ると、レオナルド・ダ・ヴィンチがいます。モナリザを最後まで手放さず、少しづつりタッチしていった生き様には、自己の全生命をこの絵に代弁させようとした執念が感じられます。時代が時代ですから、空を飛べたらいいなとの思いは、そのまま鳥の羽根を人工的に作って打ち振るのではどうかという発想で済みましたが、この時代としてはとんでもない発想だったのでしょう。
●●●コルビジェもダ・ヴィンチも去った時代の人ですから、現在の歴史的大変換期(と皆が言い始めています)には通用しない、という見方もできます。もちろん、そんなことは承知ですが、一方で人間って、ほとんど変わっていないんじゃないか、特に文化とか存在面については、という気もするのです。
人間って、この一世紀あまり、科学や合理性や理性といった言葉で表わされる世界に振り回されたきたものの、愛や情念や嫉妬が無くなったわけではなく、むしろ逆に行き場がなくなってモヤモヤとした空気はどんどん広がっているようにさえ思えるのです。
余談はさておき、イントロは終わりです。後は本文で、ああだ、こうだと検証して、だからこれまでの分類法や仕事の仕方はもうやめよう。新しい「視体系プロ」として社会に打って出よう、という話になります。
(以下破棄:でも、どこかで後補の可能性)
誰を例にとってもいいのですが、ここではアメリカの知られたデザイン会社IDEOのCEO,ティム・ブラウンの考えを借りましょう。
「(デザイナーたちは)人間的に望ましい物事と、技術的・経済的に実行可能な物事を結び付けることで、今日のような製品を生み出してきた(が、それにとどまらない。いまや) 自覚したこともない人々にデザイナーの道具を手渡し、その道具をより幅広い問題に適用するのが、デザイン思考の目的なのだ」
これはデザインの基本的考え方であり、つまりこれもコンセプトであり戦略であるのです。
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